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【ぶらり滋賀観光】余呉湖・賤ヶ岳

気候も良くなってきたので、紅葉も期待してお出かけ
余呉湖へはJR山科駅からびわこ線野洲まで乗り、近江塩津行きに乗り換えて、約1時間30分弱余呉駅に到着
米原駅で切り離しなどもあるので、アナウンスに注意しなきゃいけない


1.余呉湖(北)

JR余呉駅は、JRしては地方らしいというか、周囲が田んぼに囲まれたところにポツンとある

駅から見た余呉湖

余呉湖長浜市に属しており、役所の支所などは駅から離れたところにある。西側に住宅が固まっていて、駅やそちらのほうにコンビニなどは一切ないカフェが一件あったぐらいだろうか
湖北の公園近くにあるレストランで食事をとらないのであれば、持ち込み推奨である

鴨泳ぐ余呉湖北2

余呉湖は鴨が多い! ただ鴨川の鴨より、人に慣れていないのか、ちょっと近づくだけでも大げさに逃げてしまう
湖面の緑は、余呉湖で長年問題になっているアオコ。人間の流した生活排水などで水が富栄養化し、湖面を覆って藻を腐らせて、生態系を破壊する。数十年前に教科書で習ったものだけど、解決したわけではないのだ
もっとも、冬場はワカサギ釣りも流行っているそうで、悪化の一途というわけでもないようだ

余呉湖の像

公園にはこの地に残る羽衣伝説にちなんだ天女の石像が建てられている。本来は、羽衣がかかっていた柳が名所となっているのだが、台風の影響で倒れてしまったらしい(もっとも、それも二代目らしいけど)
後に出会ったガイドのおじさんによると、羽衣伝説は大陸由来の神話であり、それが残る地域は朝鮮半島からの渡来人と深いつながりがあるとか

煙る農道

湖の西側には耕作地と農家の住居が占めている。かなり広く、端っこに子供の遊び場として遊具が置かれていたり
いちおう、ハイキングコース(?)もできていて、砂利道だけど雑草に邪魔されず歩くことはできる


2.余呉湖(南)

ハイキングコースが終わる頃には、住宅地もおさらばで、狭い車道に合流する。そこでは、ミツバチが巣を作っていたりもしたが、なんとか刺されずに通れた

蛇の目玉石

暗くて恐縮だけど、これが蛇眼玉石。ここには湖に入水した”菊石姫”にまつわる伝説が残っている
いろんなバリエーションがあるようだが、もっとも鮮烈なのは、子供の頃に蛇の体に近づいていったために湖へ入り、面倒を見ていた下女に、自らの目(蛇の目)を渡して形見とした。蛇の眼の石には不思議なご利益があり、周囲の信心を集めたが、とある身分の高い人が下女にそれなら両目とも渡すように強要し、耐えられなくなった下女は菊石姫に呼びかけた
下女の窮状に、姫はもう片方の目を渡し、「両目が見えなくなったので時間が分からない。湖のほとりにお堂を建てて、鐘を鳴らすように」と頼んだとか。他には、姫は雨不足への請願に湖に入水したとも言われる

新羅崎神社跡

道から少し登ったところにある新羅崎神社跡。面影はやや平らに開けている以外にないのだけど、賤ヶ岳の戦いの折に、ここが伏兵を置く絶好の地点になったとか
湖面沿いの道は細いので、ここから下を通る兵たちを撃てば、かなりの成果をあげたことだろう
どちらが使ったかは命じされないが、佐久間盛政の奇襲部隊が通って退却したルートなので、柴田方が羽柴勢の追撃をここで留めたに違いない

アジサイ園の紅葉

アジサイ園はこんな季節では当然ながら咲いているはずもなく、微妙に紅葉した木だけが迎えてくれた

国民宿舎跡

かつて、ここには国民宿舎があったとか。日本各地に観光産業の振興及び安く泊まれるレジャー施設を国民へ提供する事業も、バブル崩壊から政府系金融機関の融資が止められていったことで、次々と廃業が相次いだ
今となってはそんな余裕があったものだと、昔の日本に驚くが、戦国の合戦とは違う意味で無常を感じる。どこにも箱物を建てる、あの狂騒はなんだったのだろう
いちおう、余呉のスキー場のほうでは、別の法人として宿泊施設が運営されているそうだ

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『新史 太閤記』 司馬遼太郎

続きは『覇王の家』?→扱っている年代は同じでした




寺に奉公へ出されていた“猿”は、高野聖の一団と出会う。商人としての立身をかけて、彼らを追って寺を出たものの、聖たちは三河を通った際に撲殺されてしまう。そこから宛もなく流浪の日々を送った末、織田家の足軽組頭・浅野又右衛門を頼り、若き当主・織田信長の近くに仕えることに。信長は桶狭間の戦いに勝利した後、美濃攻略へ向かい、“猿”は土木技術と調略の才を開花させていく

司馬遼太郎による秀吉の“半生”を描いた『太閤記』
司馬は生まれが大阪だからだろうか、江戸時代とそれを築いた徳川家康に辛く、晩節を汚した豊臣秀吉には甘い。本作では秀吉に甘い所以がストレートに表現されている
対比されるのが、今は同じ愛知県である尾張と三河の地域性の違いで、尾張が豊かな穀倉地帯でかつ、河川が入り乱れる地勢から商業が発達。住む人間も自然と商業の感覚が身について、信長や秀吉といった飛躍した知性を生み出す
対して、三河は篤実な農業国であり、徳川家康ら三河武士の性格そのもので、堅実ながら自己主張が薄い
もし秀吉の天下がなく、そのまま江戸時代になったらその後の日本はどうなっていたか。今の経済大国はなかったのではないか、と言いたげだ
そして晩年の秀吉を描きたくなかったからか、本作は小牧・長久手の戦いの後に、家康を上洛させ天下人の地位を固めた瞬間に幕を閉じる

墨俣一夜城など今となっては、史実ではないとされる話も肯定的に取り上げられている。今浜を「長浜」と改名したように、“大坂”という地名を作ったとか、ノリで書いたようなところもある(蓮如上人の歌が有名なのだが)
初出が1968年であり、今の研究とかなり違ってくるのは致し方ないことだろう
そんな本作の見どころは、偉人たちへの人物評。同じ尾張に生まれた織田信長と豊臣秀吉は、商業感覚から来る軽快さで変化を拒まない。明朗な一方で猜疑心も強い信長に、秀吉は同じレベルの人間と気づかせないように働き、他の同僚にも爪を隠していく
信長と秀吉の手法で大きく違うのは、信長が織田家の領土を膨らませる形で天下を統一しようとしたのに対し、秀吉はより現実路線として大大名の割拠をある程度許し、港や金山など経済の要所を握ることで覇権を維持しようとした(今では、信長も同じような構想を持っていたともされる)
もう一人、近い人間として描かれるのが、腹心となる黒田官兵衛である。先輩軍師である竹中半兵衛が合戦の芸術家とされるのに対し、秀吉同様に調略に長じてキリスト教を通じて旧来の価値観に囚われず、秀吉の発想についてこれる

しかし、秀吉が信長や官兵衛と違うのは、幼少期から底辺の人間や世間を見て歩き、人間の本性を骨の髄から知っていること。野に咲くタンポポを食べて暮らしたゼロ体験は、戦国時代の大名たちが持ち合わせていないものだった
目的のために土下座も辞さない秀吉に、最大の敵・徳川家康も最後には転がされてしまうのだ
秀吉自身もひとつ間違えれば大悪人と自覚しており、ゼロ体験で身につけた酷薄な知恵明朗さで隠しきったのが前半生であり、小説が徳川家康を上洛させたところでピリオドを打つのも、それから後に隠しきれなくなったからだろう
解説には、司馬が「外国人」に読んでもらうつもりで書くというエピソードが取り上げられて、歴史を知らない人間にも入れるよう心がけていたとか。その対比に引き出されているのが、先日読んだ井上靖の『後白河院』で、作家性の違いが興味深かった


関連記事 『後白河院』
      『覇王の家』

【京都人による京都観光】醍醐寺

桜の季節が終わりそうなので、慌てて観に行った


醍醐寺

醍醐寺は、真言宗醍醐派の総本山で創建は874年
「醍醐」とは、仏の教えにたとえられる乳製品(バター、ヨーグルト?)の意味で、開山のときに山頂付近を「醍醐山」と名付けられた
平安後期に醍醐天皇の祈願寺となり、そのあとの朱雀、村上帝と三代の天皇の帰依を受けて、山麓「下醍醐」にも広大な伽藍が建てられて殷賑を極めた。その後も、白河上皇や源氏、室町には足利尊氏が帰依した賢俊僧正義満の「黒衣の宰相」と呼ばれた満済准后と、時の権力者と密接にかかわって権威を保ってきた
しかし、応仁の乱では一気に荒廃し、五重塔を残すのみとなる
そこから復興するきっかけとなったのが、豊臣秀吉による「醍醐の花見。秀吉の力により、今ある形に整った


1.三宝院

三宝院の唐門

三宝院は1115年に創建し、座主が居住する本坊だけあって、建物がしっかりしている
寺院内部の拝観にも、醍醐寺全体の拝観料1500円とは別に、特別拝観として500円が追加で必要だった。それでも見る価値はある

三宝院の庭
三宝院の庭3

なんといっても目玉は、秀吉が設計を指示したという庭園。中はさすがに歩けないが、縁側からいろんな角度で楽しめる
近くの広間には勅使を迎える間など、当時は豪華だったろう襖に彩られた部屋があり、自慢の庭を見せつけたことがうかがえる
熱帯のヤシっぽいのも見かけたが、さすがに後で植えられたのだろうか?

物見やぐら

気になったのは、この物見やぐら!
中世の寺院はいざという時のために、要塞化を視野に入れていたというから、火事だけでなく襲撃にも備えていたのかもしれん


2.伽藍エリア

仁王左仁王右
ここの仁王は他の寺院より、頭が大きくとユーモラス

五重塔

伽藍エリアに入ると、中枢から離れるせいか、うらぶれ感があった。
五重塔はさすがの存在感。そのわりに、周囲が寂れているのが不思議だった
しかも、仁王門から金堂、五重塔の間の参道で、両側の木が大きく刈り取られて平地となっている

切り払われた森

こんな有り様。それというのも、2018年に台風21号が直撃! 3000本もの倒木、壁の損壊が起こったせいである
元の姿を取り戻すのに、何十年という月日がかかることだろう。プータローの管理人にできるのは、拝観料を払い、お賽銭で浄財することぐらいだが……

弁天池
弁天堂のある弁天池は健在だった

弁天池の亀
池には大きい鯉が泳ぎ、岩の上には亀さんがひなたぼっこ。首を上げてじっとしているけど、疲れないのかな



桜並木 (3)

醍醐の花見に期待して桜を見にいったけど、すでに満開というにはほど遠く、半分ぐらい散っていたのであった
いちおう複数の種類が植えてあるから、いい感じのもあったし、風で花びらが散っていく光景は幻想的。そこらへん、画像にうまく収められないのが(管理人の腕的に)残念

霊宝院の桜霊宝院の桜 (2)

その代わり、寺院の宝物が集められた霊宝館では、遅咲きの白山大手鞠が出向かてくれた
三宝院の庭には桜が少なかったし、秀吉がどこで花見をしたのかはよく分からなかったが、境内というより三宝院、霊宝館、伽藍エリアの間の道が桜並木となっていて、間道にこそ見どころがあるようだ
まあ、件の台風のせいで、だいぶ倒れたからだろうけども……

『天下統一』 黒嶋敏

「唐入り」の実態



「天下統一」とは、どういうことなのか。秀吉、家康の対外政策を通して、その意味を問う

「天下統一」というと、秀吉が後北条氏を滅ぼした1590年(天正18年)と学校で教えられている
本書ではこの「天下統一」の定義を問いかけることで、いかなる紆余曲折を経て江戸時代の「天下泰平」にたどり着いたかを明らかにするものだ
「天下統一」とは、一人の君主が直接支配することではない。一つの権威に諸侯が従うこととするなら、源頼朝も前例に数えられるし、秀吉は1590年以前に北条の従属を勝ち得た時期があった
ここで問題なのは、「天下統一」と「天下泰平」の間。秀吉は諸侯を従えたが、一代限りの天下に終わった。いかにして天下人の地位を世襲していくのか
そのために何をもって諸侯を従えるのか。そこに、秀吉、家康の苦心があった


1.武家の支配原理“武威”と朝鮮出兵

秀吉は関白の地位を得て摂関家待遇となったが、あくまで武家である。その支配原理は武力が支配を正当化する「武威
従属した諸侯には一見、寛容に領土を安堵するものの、検地を行って国力を割り出し、寺社や城の普請などを命じる。それに対して反抗する諸侯は、後北条氏のように武力で打倒する

著者はこの論理が「唐入り」、朝鮮出兵にも適用されたと考える
秀吉の「唐入り」は明の征服が目的ではなく、明から「日本国王」の地位を勝ち取ることと、李氏朝鮮を日本に従属させること
当時の東アジアではそれぞれ自国を中心にした華夷秩序をもっており、当時の日本は明は帝国として上位とするが、隣の朝鮮は下位の国とみていた。近代国家同士のように対等の国として見る国際慣習がなかったのだ
その立場を公式に認めさせるために、行われたのが秀吉の「唐入り」だという。国内での豊臣の地位を安泰とするためにも、「日本国王」=外国からの承認が欲しかったのである
朝鮮出兵=秀吉の外交感覚の欠如がもたらした侵略戦争と、単純にはいえないわけなのだ


2.“武威”外交を引き継ぐ家康

武力で相手を威圧し、従属したら「仁政」=寛容さを示すという「武威」中心の政治は、外交的にはハト派に見られる徳川家康にもあてはまる
家康は秀吉の死後に五大老筆頭として、対朝鮮、対明の講和交渉を仕切り、この時点で「天下人」として認められていたとする
対朝鮮では、相手が格下であるという前提を崩さず、朝鮮側から使者を派遣するべきとする。結局、伝統的に李朝と交易していた対馬の宗氏へ使者が来た際に、そのまま江戸には連れてきて、既成事実を作ってしまう

対明に対しては、勘合貿易の復帰あるいは民間の通商解禁を求めるが、はかばかしい結果は得られない
薩摩藩に関ケ原の敗戦を不問とする代わりに、琉球に圧力をかけさせて明との交易を求めるも、「武威」の外交が裏目に出てしまう。進展がでなければ、「ばはん」(=倭寇)の取り締まりを止める、つまり海賊行為に及ぶと脅したのに反発を招いたのだ
家康もまた武家の棟梁を継いだわけであり、国内にアピールするために武力による成果が欲しかったが、存命中に通商の復活はならなかった


とはいえ、大坂の陣で最大の抵抗勢力である豊臣家も滅亡。家康→秀忠→家光と最高権力者の世襲も達成されて、「日本国王」の必要性は薄くなっていく
むしろ、島原の乱など海外との交流が国内の混乱を招く懸念が出てきたため、西洋との交易をオランダに限るなど、国を閉ざす方向へ傾いていくのだった
本書は国内の統一運動と対外政策が密接に結びついていて、家康が武断政治を継続していたことを明らかにしている。東アジア諸国が、自国中心の華夷秩序で他国を位置づけてきたことなどは、今の外交関係にも通じる視点だと思う


*23’4/22 加筆修正



*天下統一シリーズもアルファーになって焼き回しの作品だらけだったが、日本一ソフトウェアの子会社が事業を継承。何か進展があるのかな?

『夢のまた夢』 第5巻 津本陽

巻末に作者のインタビューあり。実家がすごい金持ちで、うらやましい

夢のまた夢〈第5巻〉 (文春文庫)夢のまた夢〈第5巻〉 (文春文庫)
(1996/02)
津本 陽

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いよいよ最終巻。文禄の役の続きから、関白秀次の粛清慶長の役、そして秀吉の臨終まで
朝鮮出兵は明軍の増援が到来するに及んで、日本軍は防戦に追いやられる
西洋の技術を取り入れた大砲、日本にはない本物の騎馬軍団、斬撃を通さない甲冑と体格差、小銃の性能や戦術では日本が勝るものの、明の軍隊は手強かった
限界を感じた小西行長は、明の官吏と釣るんで和議を偽装する。元々、堺衆の行長は勘合貿易の復活を目指していて、唐入りは本意ではなかった
しかし、秀吉は実質的に明の柵封を受けることを知って激怒し、慶長の役に到る
和議の間に明軍は10万もの大軍に増強していて、日本軍に文禄の役のような進撃はできなかった
結局、朝鮮出兵は毛利、島津、宇喜多、加藤清正ら西国勢を消耗させ、勢力を温存した徳川家康、前田利家らの東国勢の格差が拡大。戦功と恩賞がまるで見合わないことから豊臣政権に対する恨みを残しただけに終わる

豊臣政権の崩壊の決め手になったのは、関白秀次の粛清だろう
淀君が鶴松を生んだときに石田三成ら中央集権派と秀次は対立するが、鶴松が早死にしたことで秀吉は後継を秀次に決め、実権を握りつつも徐々に権限を譲り渡していた
秀吉が認めたことを秀次の意向で取り消された事例もあるようで、秀次がまったくの置物状態ではなかった
しかし、お拾い=秀頼が生まれたことで、再び三成らと対立が再燃する。秀次は徳川家康、前田利家といった大大名ら、地方分権派と交際し、自分をないがしろにする奉行衆とは相容れなかった
秀吉は秀次の謀反を疑わなかったが、秀頼に政権が移譲されるかに疑念を持つ。小説では老いからくる判断力の低下が強調されている
秀次には彼が養子にはいった三好家の人脈、おねの実家である浅野家、秀吉の子飼いものたちがついていて、その粛清は豊臣家の勢力を半減させるものだった『下天は夢か』第1巻から出ている川並衆、前野将右衛門(長康)も自裁!
『夢のまた夢』の第1巻では冒頭に登場し、本能寺の変後に上方の情報収集を尽くして天下取りの足場を作った漢がこんな最期を遂げるとは、まさに無情というしかない

朝鮮出兵の歴史的評価に関して、作者も否定的にならざる得ない
戦国時代の日本の人口が1600万人に及んだと言われ、同時代のヨーロッパと比べて異常な人口密度であり、戦乱で生まれた膨大な兵力を外征に向くのは自然の見方をしつつも、半島を包んだ戦火、豊臣政権に与えた影響などから、戦国の蛮風を惜しんでいる
義兵に苦戦した文禄の役を反省し、慶長の役では朝鮮の農民を日本に連行し、逆に日本の農民を半島の田畑に耕す、あるいは兵士が屯田する試みがとられた。連行された朝鮮人の中には、優れた陶工の職人もいて、九州各地を中心に伊万里焼など日本を代表する陶磁器が発達した
イエズス会の奴隷貿易、満州族の漢人連行など、大陸の戦争でよくあることではあるものの、言語も通じない異民族同士の戦争は凄惨を極め、日本人の日記にも目を背けたくなるようなことが多かったようだ

小説全体を総括すると、秀吉が最初から総大将であるため、彼個人の活躍はとうぜん政治、外交の現場が中心となる。合戦描写は加藤清正らを除いて直接関係のない人物の逸話も多く、俯瞰的な視点が強かった
『下天は夢か』の続編であるため、信長の部下時代がなく右肩上がりに出世していくところもないから、本作の秀吉は権力者としてのえげつなさを容赦なく描かれている。従来の太閤記にあるような、人たらしの成功者にとどまらない、専制君主としてのリアルを感じさせてくれる画期的な秀吉像だ
引用が多く資料集と化している部分があるのの、避けられがちな朝鮮出兵を取り上げきったことも高く評価されるべきだろう


前巻 『夢のまた夢』 第4巻

『夢のまた夢』 第4巻 津本陽

大河の秀吉も黒くなってまいりました

夢のまた夢〈第4巻〉 (文春文庫)夢のまた夢〈第4巻〉 (文春文庫)
(1996/02)
津本 陽

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第4巻は利休切腹、奥州仕置後の葛西大崎一揆、そして、いよいよ「唐入り」、文禄の役に入る
朝鮮出兵は、大河ドラマなどでも直接取り上げられない事案であり、歴史小説でも珍しい。その経緯、実状が描かれるだけでもたいへん貴重だ
利休が切腹にいたる理由には、天下統一が果たされて利休がバックにする堺の商人たちの必要性が落ちたこと、石田三成ら奉行衆ら、豊臣家中心の中央集権体制を築こうとする一派が、諸大名の連合を良しとする徳川家康らと対立し、その政争に巻き込まれたことが挙げられる
まず俎上に上がっていたのは、葛西大崎一揆をそそかしたと思しき伊達政宗で、秀吉が正宗にほれ込んでしまったため、目障りな利休へ矛先が向いたとしている
ただし、秀吉自身は利休を葬り去る気はなく、死後は利休の茶を偲んでいたという
初期の江戸幕府も親藩を含む大大名にいちゃもんをつけて改易に追い込んだりしていたから、三成らの活動は理解できなくもないが、本来は結束すべき加藤清正らと対立したのが致命的だったのだろう

文禄の役は、秀吉が李氏朝鮮に唐入りの道案内を頼み、断られたことから始まる
対馬の宗義智から朝鮮が日本の属国と知らされたからだが、小説では秀吉はそれが嘘だと知っていて、仕掛けたとしている
上陸後の日本軍は連戦連勝だった。朝鮮の精鋭が満州対策で、北方に編重し、火砲がまったく足りておらず、常備軍が少なく、非常時には素人を徴兵する体制だったことなどから、首都・漢陽(ソウル)、平壌まで簡単に進撃できた。加藤清正は日本海側からオランカイ、満州の地まで侵入した
しかし、海では李舜臣の艦隊が猛威を振るい、日本軍の兵站を脅かし始める。日本軍の船は、巨船であっても竜骨がなく、李舜臣は針鼠のような装甲船、亀甲船で突貫させて粉砕した
明軍の増援でこう着状態に陥ると、民衆が義兵として決起し、官兵よりたくましい戦い方を見せ、伸びた補給線に痛撃を浴びせた
事前の予定では日本での経験から、民衆は誰が統治者でも平穏になれば畑を耕し、そこから兵糧を得られると考えていたが、実際には逃げ散ったまま帰って来なかった
戦争の長期化で朝鮮全土は飢餓状態に陥り、西国勢中心の日本軍は慣れない厳冬を迎えて消耗していったのだった

大河つながりで、黒田家の活躍を追ってみよう
九州・豊前12万石領する黒田家は文禄の役に従軍し、黒田長政を中心に活躍を続ける
親父の官兵衛は、戦線がこう着状態に陥ったのを受けて、加藤清正と小西行長などの対立を収めるために大将となりうる人物が指揮をとるべしして、「前田殿か徳川殿、でなければ、この官兵衛がいかずば収まらない」と大言していた
明軍の到来を受けて、現地の小早川隆景を中心にまとまることになったが、実際に官兵衛は渡朝して、兵力が分散しているので、漢陽(ソウル)に集中して対抗するよう献策したようだ
それに不服の小西行長は平壌に立て篭もって、明軍に苦戦。退却する小西軍を漢陽近くで迎えたのが黒田勢で、長政が先陣に立つと大いに日本軍の士気が上がったらしい
あくまで小説だから、引用された史料にどこまで信憑性があるかは不明だが、ドラマ的にこんないいネタが転がっているのである
大河はどこまで汲んでくれるか。NHKに期待してはダメかねえ


次巻 『夢のまた夢』 第5巻
前巻 『夢のまた夢』 第3巻

『夢のまた夢』 第3巻 津本陽

利休が茶器で金を稼いだ話が。まあ、堺の商人だかんね

夢のまた夢 (3) (文春文庫)夢のまた夢 (3) (文春文庫)
(1996/01)
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徳川家康と和睦した秀吉は、九州に目を向ける。九州では島津家大友家を圧迫し、全土を制圧する勢いだった。島津家は停戦の調停を弾いたため、秀吉は毛利家などで20万の大軍を編成して乗り込む。あまりの大軍に補給を圧迫されていたが、島津家を服属させることに成功する。この成果を受けて、全国に惣無事令の発令した

第3巻は九州征伐から小田原征伐による天下一統まで
秀吉は島津家と戦うために、かつて九州にも勢力を伸ばした毛利家に参戦を命じた。島津方についた秋月家の戦いは激戦となったが、数日で降伏に追い込んだことで、戸次川の敗戦を挽回し流れは一気に秀吉に傾く
将来の唐入りに島津の兵を使うために、秀吉は決戦を回避し島津家の本領を安堵した
九州征伐後に上洛しない北条氏政・氏直父子に対しては、真田家の城を奪ったことを惣無事令に背いたとして、徳川家康や上杉景勝を先鋒に関東遠征に乗り出す
こちらは氏直の拙さもあって、氏政は切腹、関東六州を没収されてしまった
小田原攻囲中に、惣無事令に背いた伊達政宗が参陣し、これを許すことでほぼ天下統一に成功する
秀吉自身は天下人なので史料の引用と茶道の話が多くなってしまうが、独裁者に楯突いていた者たちの逸話が面白い。わずかな運不運で、身の栄達か抹殺かが決まってしまう。まさに天国と地獄である

秀吉は大名たちの領民と領地の結びつきを断つために、積極的に国替えを行った
信長時代は、旧来の領土に加えた加増だったが、所領を完全に捨てさせた上での国替えなので、格段に厳しい
秋月家との戦いで功績のあった蒲生氏郷は、天下統一後に旧蘆名領の会津へ転封されるが、伊達政宗とつぶし合わせ織田家の勢力を削ぐ狙いがあった
織田信雄などは関東六州に異動した徳川家にスライドして、三河・遠江・駿河・甲斐・信濃の五国を封じられたが、拒否しために所領全体を没収されてしまった
国々の経済力を把握するために過酷な検地を行い、刀狩で階級分化を促進したのも、一揆を防ぐだけでなく、農民兵を大名に雇わせないためだった
検地によって農民からの中間搾取はなくなったものの、その取り分を領主に回るようになった。秀吉の権力のもと、良くも悪くも近世化が進んでいったようだ


次巻 『夢のまた夢』 第4巻
前巻 『夢のまた夢』 第2巻

『夢のまた夢』 第2巻 津本陽

大河の展開にぎりぎり追いついた!?

夢のまた夢 (2) (文春文庫)夢のまた夢 (2) (文春文庫)
(1996/01)
津本 陽

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明智光秀、柴田勝家を破った秀吉は、信長の盟友、徳川家康と対峙した。家康は本能寺の変後の混乱に、信濃と甲斐を奪取して五カ国の太守となっていた。秀吉が旧織田家領内の覇権を手にしたことで、自分をないがしろにされた信雄は家康に通じて対抗。緒戦を敗れた羽柴軍に対し、四国の長曽我部、紀州の雑賀・根来衆、越中の佐々成政が蜂起する

第2巻は小牧長久手の戦いから、大坂城の築城、関白の任官、紀州・四国討伐に、九州征伐における敗戦、戸次川の戦いまで
人海戦術にものを言わせる秀吉も、徳川家康と三河武士の前に前進が止まった。倍を越える大軍を集めても、その過半は山崎の戦い以後味方になった外様に過ぎず、股肱といえる旗本の人数は足りない
調略で焚きつけた池田信興森長可(ともに恩賞を徳川領と約束していた)が敗れると長期戦となり、不満を持つ諸勢力が蜂起しだした
そうした事態を打開したのは、お得意の調略
尾張、伊勢の諸城をこつこつ落として信雄を圧迫して単独講和に成功。紀州、北陸、四国と敵対勢力を各個撃破する
なお歯向かう徳川に対しては、妹・旭姫の輿入れという懐柔策をとりつつも、徳川家の重臣・石川数正を一本釣り! 徳川家を大きく動揺させ、服従に成功する
天下一の人たらし、ここにありだ

この前読んだ小説から、ついつい利休のことに注目してしまう
秀吉と利休は共存共栄の関係でスタートした
高い官位を手にしても、百姓生まれの身分が傷となる秀吉は、茶道を従来の身分社会を超える新しい権威にすることで、天下人への道を開いた。天下一の茶頭を従え、貴顕を茶会へ招くことで威厳を示すことができた
利休も秀吉に仕えることで、1985年に朝廷で初めてお茶を点てる、「禁中献茶」を実現、ここで利休」という居士名を賜ることになる
商家の放蕩息子が信長、秀吉に関わることで、比類なき権威に上り詰めたわけで、黄金の茶室、聚楽第の庭の設計にも携わったことを考えると、一概に「大名茶」と「侘び茶」の対立があったとも考えにくい
切腹の原因には権力闘争が大きなウェイトを占めていそうだ


次巻 『夢のまた夢』 第3巻
前巻 『夢のまた夢』 第1巻

『利休にたずねよ』 山本兼一

利休にたずねよ利休にたずねよ
(2008/10/25)
山本 兼一

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天正19年(1591年)、利休秀吉から死を賜った。切腹の前日、利休は妻の宗恩から「他に想い人がいたのではありませんか」と尋ねられる。利休の茶が他の茶人から抜きん出るのはなぜか。嫉妬する秀吉をはじめ、細川忠興古田織部といった高弟たち、親類たちが問いかけていく

なかなか魅せられる小説だった
一見、茶道の美意識に生きる茶人と傲慢な権力者の対立を見せかけつつ、利休の茶道への執念を追いかけていくうちに、その欲望は秀吉の天下一へのこだわりに等しく見えてくる
しかし、利休の茶は嫌らしさに堕ちず、一同を感服させる美へ昇華させた。その根底に迫るのが小説のテーマである
ミステリーとして、その肝心、要の理由を早々に明かしてしまって興を削ぐが、恋路のくだりでは伏線が鮮やかに回収されて、納得のいくラストだった
人を歓待する精神、茶道具への愛情、そして人を狂わせる独特の空間、茶道の魅力、魔力を存分に味わえる作品だ

利休がなぜ秀吉に死を賜ったか。今もって謎とされ、この小説でも明確な答えは用意されていない
「内々のことは宗易(利休)に」と言われたように、本作でも秀吉の政策に深く関わる様子が描かれる
九州征伐では、島津家への書状を秀吉とは別にしたためて安心させ、李氏朝鮮の使者が来たときには秀吉の傲岸な振る舞いをフォローするように使節を庵で歓待している
小説では黄金の茶室を利休が設計したことになっていて、必ずしも秀吉の茶を利休は否定していない
北条征伐のさいには、北条家に仕えていた高弟・津田宗及を助命すべく秀吉に頭を下げており、政治の世界では忠実な側近として描かれている
大徳寺の仏像も口実であって、秀吉からすると利休の茶の秘密を知るために追い詰め、利休は誰にも言えぬと恋のプライバシーを守って死ぬ。美しいフィクションとして幕を閉じた

実際のところ、利休はなぜ処断されたのだろう
1591年というと朝鮮出兵の前年で、諸大名に苛烈な軍役を命じる段階にあった。大大名とも厳格な主従関係を築きたい秀吉にとって、政治の裏ルートである茶道の場を抑えておきたかったのかもしれない
また利休が楯突いた理由に、侘び茶の精神が唐物・高麗物をあり難がる気風を脱し、国内の産物を再評価する、国学的な活動に思え、唐入りを目指す海外雄飛志向の秀吉と思想的な対立があったとも想像したくなる


利休にたずねよ コレクターズ・エディション(Blu-ray Disc)利休にたずねよ コレクターズ・エディション(Blu-ray Disc)
(2014/06/13)
市川海老蔵、中谷美紀 他

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『夢のまた夢』 第1巻 津本陽

『軍師官兵衛』では、山崎の戦いも賤ヶ岳の戦いも数分で終わりましたが


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『下天は夢か』の続編とも言うべき、豊臣秀吉の天下を追った歴史小説
第1巻は信長の横死を知っての中国大返しに始まり、山崎の戦い、清洲会議、賤ヶ岳の戦いまでで、秀吉の巧みな多数派工作、外交、調略に、蜂須賀小六、前野長康、黒田官兵衛、加藤清正ら股肱の働きを細密に描いている
やや盛り上がりに欠けるのは、明智光秀や柴田勝家に対し数的優位で押し切ってしまうところで、史実だから致し方ないのだが、信長配下時代に比べ作者ののめり込み方が薄く、むしろ配下や敵武将の散り様に力が入っている
秀吉も山崎の戦い後には早くも、天下人としての野望を露わにしていて、金と知行にものを言わせた勧誘で次々と織田家家臣を崩し、自分の力へ変えていく。田中角栄は今太閤の異名を取ったが、確かに重なるものもあって、秀吉は日本の政治文化の先駆者に思える

主役の秀吉はすでに武将として成熟し過ぎて、半ば悪役である。謀略で勝てる相手がいないので、敵を次々に窮地に追い込まれて可哀想に思えてしまう
作者も同様なのか、合戦におけるマイナー武将の逸話や死に様のほうに熱が篭る
『へうげもの』にも登場した中川清秀は、賤ヶ岳の戦いでいかにも戦国武者らしい行動を取る
山崎の戦いで功があったのに、信長の近臣・堀秀政のほうが重用され、賤ヶ岳の戦いでも千人足らずの兵で激戦区に投入された。佐久間盛政の大軍に取り囲まれた時、味方の陣地へ引くこともできたのに、秀吉への意地からか激しい抵抗の末に討ち死にしてしまう
清秀は天下人面する秀吉が気に入らず、平素から呼び捨てにしていたという。信長の野望シリーズでは中途半端な能力で裏切る武将というイメージだが、誇り高き武辺者であったのだ
その清秀を討った佐久間盛政もいい逸話が載っている
盛政は賤ヶ岳の戦いの後、落ち武者狩りの農民たちに囚われたが、召抱えたいと思っていた秀吉は、農民たちは武士の真似をする無礼者として処断する。驚く盛政に秀吉は口説くが、今さら仕える気になれないと断った上で、自分を京都市中に引き回して晒し者にすれば、秀吉の威徳は四海に伝わるだろうと返したという
本当かどうかは分からないが、盛政の意地に、股肱の臣を増やしたい秀吉の事情、武士と農民の階級分化させる政策を踏まえた、いいエピソードだ


次回 『夢のまた夢』 第2巻

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