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『街道をゆく 8 熊野・古座街道、種子島みちほか』 司馬遼太郎

どうしても冗長な記事となる……




第8巻は、和歌山南部(熊野)、大分、奈良(西吉野)、種子島と一見、脈絡がないようだが、ちょうど司馬は『翔ぶが如く』を連載中。西郷隆盛などの明治の元勲を生み出した若衆組」の痕跡が、山間部には残っているのではないかと、探索していく
初出は1975年6月から1976年1月の『週刊朝日』


<熊野・古座街道>

白浜から下って、周参見川の河口から古座街道へ入っていく
京都から熊野大社へ参拝するルートには、白浜から熊野本宮へ山道を向かう「中辺路」、白浜から紀伊半島沿いに新宮までの「大辺路」に、「大辺路」が時化で荒れてるときのために途中で川沿いに渓谷に入る古座街道がある
古座川の渓谷は大きな岩壁が目立つ壮観なもので、山肌に生えた山藤が揺れる‟藤波”に、岩から注がれた湧き水による飛沫、須田画伯が板にたとえた‟一枚岩”と魅力的な光景が広がる
一方、古座の町には、戦前のままの理髪店がノスタルジイを誘う

熊野は淡路まで勢力を伸ばした安宅党の水軍がいたが、山間部だけに「古座街道」には直接かかわらない。古座川の人にとって、江戸時代に新宮が港として発達したことが大きく、江戸や上方への航路が生まれ、備長炭などの木炭が商品として売り出された
備長炭は600度の低温で安定した火力を生むため、日本料理に重宝した。元禄年間に備後屋長右衛門が江戸に売り出したのが、その名の由来ながら、土地に長らく伝えられた知恵を商品化しただけではと司馬は推測


<豊後・日田街道>

大分空港のある国東半島の先から、山奥にある日田を目指す
秀吉の妻ねねの兄、木下家定が残した城下町・日出(ひじ)を過ぎて、由布院を目指すと山は杉の木で覆われている。古代の木材はヒノキがメインであり、杉が用いられるのは、室町後半の数寄屋造りが流行ってからとか
由布院の「由布は、木綿と書いて‟ゆふ”とも読ませる。‟もめん”はインド原産で明朝の中国へ伝わり、戦国期に日本へ渡来した。‟ゆふ”の方は、「木綿」の文字通り、木の皮から取り出した繊維で、防寒用に使われていたらしい
「院」は官設の倉庫を意味するから、現物の税金として集められた‟ゆふ”が湯布院に貯められ、大宰府まで運ばれたと考えられる
有名な由布院温泉は、「油屋ノ熊八」が始めたもので、熊八は全国巨掌大会などのイベントを実施し、別荘を築いてリゾート開発を進めた。地域を代表する名士のはずが、経歴はアメリカ帰りぐらいとしか分からない謎の人物だ

湯布院の奥にある玖珠町に入ると、盆地に田畑がきれいに広がっており、目的の日田の地名にもあるように古くから豊かな耕作地だった
玖珠町の「森」には、ツノムレ(角牟礼)という古代の城跡がある。九州にはムレ(牟礼)という地名が多く、どれも山城。もともとは朝鮮に由来する言葉であり、『日本書紀』では半島から来た渡来人の村を「イマキ(今来)」とし、斉明天皇は彼らが住む丘をムレに喩えた
そして天領だった日田を過ぎた後は、小石原(こいしばる)の高取家を訪れる。高取家は朝鮮出兵のおりに黒田家が陶工を捕らえて帰り、士分にして陶器を作らせた
司馬が訪れた際には、女性の高取静山が跡を継いでおり、朝鮮式に作られた初代・八山の墓を案内してもらう
八山は黒田家の被害者でもあるが、黒田家はその墓に協力し、静山も黒田家を旧当主として「オカミ」と呼ぶ。微妙な経緯もあるのだが、互いにリスペクトを忘れない関係なのだ


<大和丹生川(西吉野)街道>

「若衆組」の残像を求めて、果無山脈を挟んで熊野の反対側にある吉野を散策
吉野郡は奈良県の南半分を占め、その大半が山岳地帯。訪れた下市は、吉野中の材木が集められ、大和国中と交易してきた。取材当時は吉野杉による割り箸が作られており、今では「わりばしの発祥の地」と標榜している(現在、国内で流通する割り箸の99%は中国製)
ガイドの三輪昌子さんが生まれた唐戸では、竹パイプよる水道(!)が紹介される。近代的な水道が引かれる前に、谷川の水が垂れ流す形で各家庭に供給されていたのだ。もっとも、取材当時には、ほぼ普通の水道に置き換わっていたようだが

タイトルの「大和丹生川街道」は、実際にそういう街道があるわけではない。丹生川の支流に沿っているからで、丹生(にう)とは「水銀」を意味する。吉野は古くから水銀を産出し、丹生川上神社が三社もある
ただ全国各地に水銀を取る鉱山衆は存在したらしく、丹生の地名もまた日本に点在しているようだ


<種子島みち>

タイトルどおり、種子島を北から南へ縦断する
種子島というと鉄砲の伝来だが、当時の領主・種子島時堯のもとには紀伊(和歌山県)の根来寺津田監物がいて、彼が根来へ火縄銃を持ち帰る
これは古くから、紀伊と種子島に交易路があったことを示し、九州鹿児島よりも、種子島のほうが上方文化の影響を受けていた
また種子島に特徴的なのは、米作に向いて二毛作ができること。そのために人々の気風も穏やかで、火縄銃を手にした薩摩の島津家に服することとなる

司馬が種子島の旅に誘ったのが、沈寿官(沈壽官)の14代目。日田街道の旅に出てきた高取家と同様、朝鮮出兵の際に島津家の捕虜となった陶芸職人の名跡である
当時の西之表市の市長・井元正流も先祖は小西行長に捕まり、関ケ原の後に島津家に拾われ、種子島の役人となったらしい。「先祖は戦友」という沈寿官氏に対し、「城内に住んでたから、あなたは家来筋」と返す井元氏のユーモアがなんともいえない
そして、旧領主である種子島家の当主であるアッキー様(!)。本名、種子島時哲(ときあき)の邸宅は敷地は広大ながら、慎ましい家。薩摩の威勢のいい兵児(へこ)どんが、そのまま老人になったような人柄で、そのノリに煽られて沈寿官氏も「妙円寺詣り」(関ケ原の退却にちなむ)を歌い出す
旅で探し求めていた「若衆組」の原風景をようやく見出したのであった


旅のテーマである若衆組に関しては、体験者の話はほぼ聞けていない。取材した人の年代から、地域に旧制中学校が出来ると同時に、その役割を奪われ解消したと考えられる
民俗学的には、「若衆組」は本来、「村の青年たちによる生殖のため」のものであり、夜這いなどの習俗をしきった。そのうちに、災害時の消防士のような役割を負うようになり、大人といえど抑えがたい独立した集団を為したらしい
司馬は「若衆組」を南方系の習慣を由来としつつも、日本独特のものともして、その後継に西南戦争を起こした鹿児島私学校昭和初期の陸軍軍人社会、戦後の左翼過激派を想定している。平時には大人に従順でも、暴発するさいには大人が蓋を仕切れない。2.26事件の荒木貞夫のように、若者を泳がす異常性を「若衆組」から探ろうとしている


関連記事 『翔ぶが如く』 第1巻

前巻 『街道をゆく 7 甲賀と伊賀のみち、砂鉄のみち ほか』 司馬遼太郎

『街道をゆく 7 甲賀と伊賀のみち、砂鉄のみち ほか』 司馬遼太郎

読んでない小説もあるし、司馬遼太郎完走はまだまだ先




久しぶりにシリーズを読んだ
第7巻は地域がバラバラで、統一感がない(苦笑)。あえて言うと近畿から中国・四国地方にかけての西日本で、解説の方がまとめるには‟名利を求めない職人”がテーマとも
初出は1973年から1975年


<甲賀と伊賀のみち>

藤堂高虎が天守を築いた上野城から、聖武天皇ゆかりの紫香楽宮跡をたどる
甲賀、伊賀といえば、忍者なのだが、エピソードのなかで目立つのは、装画を担当する須田剋太のヨーロッパ訪問(笑)
ツアーの付き添いで連れていかれたのだが、時差ボケから30時間不眠状態となり、脱水状態となったという。スペインで注射による水分補給を受けるという、古式ゆかしい治療法を処方されたそうだ

上野城では、西国大名が京都を制圧するさいに食い止める要地として、藤堂高虎が任されながら、天守閣を作った際に疑われてはいけないとすぐ取り壊した話が紹介される
甲賀では、足利義政の子・義尚近江守護・六角高頼を攻めた際、追いつめられた高頼を甲賀53人衆が支援。ゲリラ戦で将軍義尚を陣没させてしまう。戦国期には多羅尾氏が甲賀衆を束ねて、織田家に属することとなり、討伐を招いた伊賀と明暗を分けた
聖武天皇が築いた紫香楽宮へは、大仏建立のごり押しが反発を招いたのか、謎の山火事が生じている。この事件も甲賀忍者の魁と想像する


<大和・壺阪みち>

奈良県橿原市の今井から壺阪山、高取城を目指す
中世の奈良は興福寺を中心とする寺社勢力の牙城で、今井では「今井千軒」と呼ばれるほど商業都市として繁栄し、楽市楽座的な自由経済が沸き起こったのではと仮説。‟千軒”の名が残る地域は、どれも商人たちでにぎわった場所だった
堺うほどではないが、今井は堀に囲まれた環濠集落で、今なお中世の雰囲気を保っているようである

大和高取城は、徳川譜代の植村氏が預かった。たった2万5千石の身上なのに、最大級の山城が課せられた
その理由は上野城と同様に、上方が西国大名に制圧されたときのため。植村家自身は家康の祖父・清康の代以前から仕えた古い譜代であり、植村家政の代に、本田正純の宇都宮騒動があった。家光の日光参拝に付き添っていた家政が寝苦しく感じて、家光の側に備えていたことから、大名へ取り立てられた
さて、高取城の天険が生きたのが、幕末の天誅組の変。狭い小道に大坂城攻めで使用された大砲が担ぎ出されて、撃退に成功している


<明石海峡と淡路みち>

兵庫県の明石から海峡を渡って、淡路島を巡る
この章の主役は、漁師! 瀬戸内海、それも淡路は豊富な魚介類に恵まれ、素潜りで食べられる漁師たちがいた。取材されたときには、乱獲を避けるために、アクアラングの使用が禁じられていた
ただし、沿岸で獲れてしまうため、大掛かりな漁船は生まれず、外洋を舞台とする紀州水軍に政治的には制圧されてしまう
それでも古代からの漁法は続き、都人へ魚類を供給する役目を担った。農耕民のような束縛をうけず、自らの腕で稼いでいく‟海の民”の気風を今に伝えている

近世に淡路を治めることになったのが、豊臣恩顧の大名である蜂須賀家。阿波一国を領していた蜂須賀家政は、大坂の陣の功績で淡路一国をも与えられた
本拠地の徳島城とともに、淡路にも洲本城を擁していた。一国一城の建て前から粗末なものだったが、実は山上に山城を隠し持っており、藩主・家政はもし政変があったさいは上方に出兵する野心も持っていたという
そんな淡路の自慢のひとつが、蜂須賀家が参勤交代の際につかったと言われる松並木の街道。しかし、取材された1970年代に松くい虫の被害が拡大し、1980年代には最後の一本が伐採されてしまったとか
もっとも、マツは本来、養分の少ない瘦せ地に生える樹木であり、農業の発達によって地質が変わっていったことも一因ようだ


<砂鉄のみち>

この章は島根→鳥取→岡山とまたぐ長旅。古代の日朝関係を追う、金達寿ら在日朝鮮人の研究者、作家たちをともなうちょっとした団体旅行である
製鉄の技術では、古代日本は後進国中国は秦漢時代に大規模な生産を行っており、古代朝鮮でも「辰韓」が鉄器を作っていた
その日本に治金の技術をもたらしたのは、朝鮮からの渡来人と考えられ、出雲(現・島根)の地から中国山脈の山奥へ入っていったという
古代では鉱山から鉄鉱石を掘る技術はないので、砂鉄を木炭か薪の上で燃やし続け、自然の風で行ったと考えられる。送風装置のフイゴはその後も原始的な段階にとどまり、画期的な天秤フイゴが発明されたのは、江戸も元禄、1691年。西洋や中国では水車を利用されたそうだが、日本ではなぜか鍛冶には使われなかったらしい

司馬の興味は、そんな遅れた日本が、なぜ中世に刀剣などを輸出できるようになったかに向けられる
仮説として立てられるのが、日本の湿潤な気候鉄を溶かす燃料には、大量の木炭を必要とし、乾燥した地域ではあっという間に禿山が出来上がってしまう
古代中国においては、植樹する山を神域に設定し、そこに立ち入る者を直ちに斬るという峻烈な政策が提案されたりしていた
そこへ行くと、日本は‟瑞穂の国”。木材資源に悩まされることなく、生産し続けることができたのだ
ヨーロッパ地中海の覇権を握ったヴェネチアが木材不足で海軍を維持できなくなった話をどこかで聞いたこともある。自然資源の存在が国の将来を左右するのは、今も昔も変わらない


本巻で異様に力が入っていたのが、最後の「砂鉄のみち」
古代から中世、近世のタタラ製鉄について、専門書のように調べられていて、読み応えがあった。参照された本についてもあたってみたいが、さすがに手に入れるのは大変かな


次巻 『街道をゆく 8 熊野・古座街道、種子島みち ほか』
前巻 『街道をゆく 6 沖縄・先島へのみち』

『街道をゆく 6 沖縄・先島への道』 司馬遼太郎

意外に地域差が大きい


街道をゆく 6 沖縄・先島への道 (朝日文庫)街道をゆく 6 沖縄・先島への道 (朝日文庫)
(2008/09/05)
司馬 遼太郎

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第6巻は、沖縄、先島諸島の旅
週刊朝日の連載が1974年6月からと、沖縄が返還された間もない頃に取材されている。本書は、本土の資本投下されて開発される前の沖縄を映し出している
『街道をゆく』は日本人の原型を探すのがテーマで、今回はそれが持ち込まれるが、柳田國男のように南方起源までいかない。あくまで開発の遅れた<辺境>に、古日本人の遺風を探すスタンス
沖縄に触れるには、「沖縄問題」を避けられない
司馬も本土決戦に備える形で、満州から日本に呼び戻された経験があるので、15万人の島民が死んだ事実からは、自分の運命と比較せざる得ない。しかし、標準語の押し付け批判など安易な反体制論者には同調しない
沖縄問題は単に沖縄だけの問題ではなく、日本人と国家の問題をはらんでいるのだ
日本人と沖縄を巡る論争は、巻末の牧祥三の解説に詳しい。必読である


<那覇・糸満>

那覇空港から首里城糸満の漁村
沖縄県は、明治12年の「琉球処分」で誕生した。廃藩置県は明治4年から断行されていて、沖縄は明治6年に琉球藩として鹿児島と切り離された。西南戦争後に、より強力になった明治政府のもとで、国内県となる
その統治は小学校や診療所を整備するなど、薩摩藩の支配よりはかなりマシなものの、明治20年まで人頭税に苦しめられるなど、本土に比べ搾取の度合いは酷かったという

中世・近世の中国や韓国では、倭人は倭寇の活動から乱暴で貪欲と評されたが、琉球人は逆に好評だった
日本の私貿易が倭寇化したのに比べ、琉球人は中国との朝貢を保ちつつ、東南アジアまで活動していたらしい。ヨーロッパ人の記録に、マラッカ海峡に現れた謎の民族「ゴーレスが交易に来る記録が残っていて、おそらく琉球人のことだと考えられるという
司馬は、空港のトイレが糞便で汚れていたのを「本土人のしわざ」とされるところから、琉球人から見た本土人の印象を読み取る

糸満漁民の住む地域で、農村文化の那覇周辺とは一味違う
性に大らかな農村に比べ、漁村では貞操観念が厳しい。結婚する際には嫁が堅固な女であるか、確かめるための様々な儀礼が存在したという。男が漁で長く家を空けても、妻の貞操を気にしない済むようにという配慮のようだ
沖縄は島ごとどころか、細かい地域でも価値観が異なる


<石垣島・竹富島>

那覇から飛行機で石垣島
琉球王朝の印象から本土と独自に発達した印象の強い沖縄だが、想像以上に本土との関わりは深い
タクシーの運転手の話では、沖縄言葉と関西とはイントネーションが近い。薩摩言葉とは、薩摩人の海音寺潮五郎が間違えるほど似ているという
それは単に薩摩藩の支配があったからではなく、琉球人の起源の問題があって、古代日本で九州が先進地域として発達したときに、南九州の人々が琉球へ移り住んだからと考えれる
70年代の竹富島では本土復帰のために、倭寇の研究が進んでいた
この時代の倭寇は、後醍醐天皇の王子として九州の南朝を率いた懐良親王を「王」としていて、明の国書を届けていたという

沖縄に鉄器が伝わるのは遅かった
琉球王朝の成立は、鉄器の普及と深く関係している。本土と同様に、鉄の農具が農業生産量を飛躍的に高め人口を増やして、土地の争奪戦が始まった。15世紀に尚氏がはじめて三山を平定する
鉄の普及は当時の人にも衝撃的だったらしく、鍛冶をもたらした本土人(?)が神格化されていた


<与那国島>

到着するはいいが、一社しかいないタクシー会社が社長の一族に不幸があったので、社員まで喪に服すというアクシデントが(笑)
フリーダムな須田画伯が、野糞から自分の健康に自信を持つとか、珍妙なエピソードがいくつも拾われている
与那国は琉球王朝の支配に服するのは、16世紀に入ってからで抵抗の歴史が長い
老齢の巫女サンアイ・イソバはその宗教的権威をもって島民を束ね、琉球王朝の軍を何度も撃退した。ときには、八重島諸島の赤蜂(オヤケアカハチ)とも共闘した
沖縄は島々同士に交流が深いわけでもなく、言語のうえでも青森と鹿児島の方言以上に意思疎通がしにくいそうだ

日本にはもともと蒸留酒の伝統はなく、東アジア全体でも酒といえば醸造酒だけだった
司馬は元代にアラビア人がもたらしたと推測していて、沖縄特産の蒸留酒「泡盛は朝貢の始まった明代と考えたが、沖縄の人はタイからと考える人が多い
琉球王朝の黄金時代には、東南アジアまで貿易船を出していたので、この説も有力なようだ


次巻 『街道をゆく 7 甲賀と伊賀のみち、砂鉄のみち ほか』
前巻 『街道をゆく 5 モンゴル紀行』

『街道をゆく 5 モンゴル紀行』 司馬遼太郎

今は貧富の差が激しいそうで


街道をゆく 5 モンゴル紀行 (朝日文庫)街道をゆく 5 モンゴル紀行 (朝日文庫)
(2008/09/05)
司馬 遼太郎

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第5巻は日本を離れ、モンゴル
司馬が少年の頃から夢想した大地であり、大学ではモンゴル語を専攻したほど。30年越しの夢が叶ったからか、普段なら風景をそっちのけで歴史とのつながりに終始するのに、今回だけは紀行文らしい描写に溢れている
モンゴル人民共和国(1974年当時)は、人口が日本の都道府県ほどで、広さは日本の四倍ほどの国。人口密度の違いからか、社会主義国のわりに暢気な空気が流れており、本来なら悪名高い警察すら親切だった
仏頂面のソ連役人との落差が際立っている
同シリーズの旅のほとんどに夫人が同行していたらしいのだが、本巻では珍しくその姿を映してネタにしていた


<ハバロフスク>

モンゴルへ入国するには、ソ連領の沿海州ハバロフスクを経由する
街を開拓したというコサックのハバロフ隊長の話から、毛皮を追う遠征と支配地拡大の拡大へと広がる。19世紀までは征服者が英雄だった
満州の経験からホテルに日本人収容者の苦難を連想する司馬だったが、意外な元収容者と会う。その日本人は強制収容所の所長に世話になったとして、お礼を言おうと有志とモスクワへ行くというのだ
捕虜の強制労働は国際法違反だが、(ソ連にしては)人道的に扱ってくれたとしてお礼を言ってしまうその人に、日本人ならでは人の好さを見る
当時の沿海州のロシア人は、日本が再び攻めてくると恐れていて、実態を説明しても「自衛隊がいる」と言い張っていたそうだ


<イルクーツク>

ハバロフスクからイルクーツクを経由してモンゴルへ入る予定が、ここでトラブル発生。飛行機が遅れたために夜七時にイルクーツクへ着いてしまい、領事館が開いているかもさることながら、その場所さえはっきりしない事態に。ホテルのフロントに聞いても、場所が分からないというのだ
ソ連にはモンゴルへの経由として旅券を得ているので、もし滞在が延びればどこに放り込まれるかと、シベリア抑留者のような運命を連想してしまう
ハバロフスクで出会った商社マンに助けられ、領事館付きの運転手(!)に入国査証を発行してもらい事なきを得る

イルクーツクはあの大黒屋光太夫が滞在した都市で、19世紀にはゴールドラッシュで各国の商人でにぎわった。清朝の商人は、自国の人間の死体を加工してその中に金を流し込み、密輸出したという


<ウランバートル>

ようやく念願のモンゴルへ入国。ガイドのツェックマさんの案内で、首都ウランバートルを巡る。ウランバートルはモンゴル語で「赤い英雄」を意味し、ロシア風の町並みである。都市生活は息苦しいのか、身分の上下問わず休暇は郊外の「包」へと戻る
日本とはノモンハン事変=ハルハ・ゴル戦争のせいで、歴史的には侵略者と評価されているが、民族感情は悪くなく日本語と構造が似ているため、日本の歌が流行っているという

モンゴルは清朝の版図に組み込まれた時代に、ラマ教による弱体化政策が取られ、遊牧民としての牙を抜かれて搾取され続けた。中華民国の時代には、国民党の将軍によって中国服まで強要されたので、革命のソ連を頼ることとなる
ロシアとモンゴルは。ロシアの東進に対して“ブリュート”・モンゴル人が協力した経緯もあって関係が良好だった。ただジンギスカンに関してのみ、ロシア人にとって侵略者なので、英雄として崇拝することは禁じられた
ソ連に経済的に依存されるコメコンに加盟していたが、牧畜主体の経済なので悪影響はなかったようだ


<ゴビ>

ウランバートルからゴビ砂漠の南部へ飛ぶ
ゴビ砂漠はタクマラカン砂漠のような、さらさらした純粋な砂漠ではなく、一面が赤い鉄さび色の荒野。司馬は火星の表面にも喩えている
ゴビでは、連綿と続く遊牧民の生活を体験。馬乳酒は、馬あるいは駱駝の乳を元にしたアルコール度数3%以下の清涼飲料水ともいえるもので、一度にどんぶりに三杯は呑む
乾燥したモンゴルの大地では、頻繁な水分補給が不可欠で、体から水分の蒸発を防ぐため、どんなに暑くても分厚い衣服を着込んでいる
遊牧民にとって、馬は自転車・バイクに相当するもので、バスで別れたはずの青年に行く先に出会って一同をびっくりさせる
モンゴルは広い。地平線の雄大さに距離感がまったく働かず、風景に興奮してフリーダムに動く須田画伯(挿絵担当)を恐々呼び止めている


次巻 『街道をゆく 6 沖縄・先島諸島への道』
前巻 『街道をゆく 4 郡上・白川街道、堺・紀州街道ほか』

草原の記 (新潮文庫)草原の記 (新潮文庫)
(1995/09/29)
司馬 遼太郎

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『街道をゆく 4 郡上・白川街道、堺・紀州街道ほか』 司馬遼太郎

農協的ホテルに激怒!


街道をゆく 4 郡上・白川街道、堺・紀州街道ほか (朝日文庫)街道をゆく 4 郡上・白川街道、堺・紀州街道ほか (朝日文庫)
(2008/08/07)
司馬 遼太郎

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今回は畿内の「周辺」と、少し北陸へ
第1巻からつぶやかれてはいるのだけど、本巻では特に土地開発に対する怒りが吐露されている。作家として歴史の余韻に浸りたいのに、それを画一的な土建事業によって無機質な光景しか観ることができない
そこには単に地元の経済だけでなく、政治家と行政と業者の癒着が見え透いていて、俗悪な建物が建てられていく。後に社会主義ばりの土地公有化論をぶったのも、私欲で風土が荒らされるのを見過ごせなかったからだ
その発端を昭和30年代からと、高度成長期以前から射程に収めていて、怒りの根は深い
面白いのは、今やシャッター化した商店街こそ、「画一的」のシンボルとしているところ。自民党政権からマスコミまでが囃したてる地方創生、町おこしは、司馬が呪う昭和型開発にすぎないのだ


<洛北街道>

鞍馬街道から花背峠を越え、山国街道に曲がり、周山に抜ける
冒頭は謎の集団、スタスタ坊主の話から
江戸時代には山伏、伊勢の御師、高野の聖、虚無僧と様々な宗教人が往来したが、スタスタ坊主は上半身裸で腰にしめ縄と、現代では変態、当時でも異様な格好だった
山伏のばったもんにも思える風体ながら、実は鞍馬寺の手代で、伊勢の御師のように札を売り歩き、寺の財政を支えていた
話はそこから、山伏、僧兵に及ぶ。友人の山伏に火の玉を出せる男がいたとか、ほんまか

日本的悪玉の鳥羽上皇を連想しつつ、山国では長州藩士・河内山半吾の話題に。半吾は無名に終わった志士ながら、山国に潜入して住民をてなづけ、鳥羽・伏見の戦いの時には、「官軍・山国隊」を編成した。ただし、戦いには間に合わず、名を挙げられなかったようだ
山国には、光厳天皇の御陵があり、維新後に正統とされなくなった北朝の天皇を偲ぶ


<郡上・白川街道と越中街道>

岐阜からスタートとあって、『国盗り物語』の取材で目にした菜の花畑を回想。菜の花は戦国時代から灯火の油に使われ始め、司馬からすると優しい文明に映るのだろう
郡上八幡城では、築城した室町時代の武将・東常緑を取り上げる。東常緑は当代一流の風流人で、関東の千葉氏との姻戚から遠征していたとき、交流のあった武将・斉藤妙椿に城を奪われた
常緑はその口惜しさを歌にして、妙椿は感じ入って城を退去したという。「何がやりたかったんだ、コラ」と思うが、まだ戦国以前の暢気だった時代のエピソードである

白川谷では、迷い込んだ僧の伝承が残っていた
旅に疲れた僧は村に泊めてもらい、やがてそこの美しい娘と結婚するが、その厚遇にはオチがあった。村では一年に一回、山の主に生け贄を捧げなければならず、村では迷い込んだよそ者を選んでいたのだ
僧は一念発起して山の主といわれる山猿を徹底してこらしめ、悪習を払拭したという
後に白川谷へは浄土真宗が広まり、門徒の町となった。司馬は仏教が文明を運んだ事例として捉える
飛騨を抜けて越中こと、富山が終着駅。富山県は東西を呉東、呉西で把握していて、それぞれ関東と関西文化圏の分かれ目となっているとか


<丹波篠山街道>

本来は長岡京で建設途上の光景を思い浮かべる予定が、あまりに開発が進み地形そのものが変貌していた
怒りの路線変更で、京都を北へ上っていく
老の坂では明智光秀を思い起こしつつ、もう一人の“謀反人”大本教の出口王仁三郎につなげる。大本教の弾圧は、永田鉄山が刺殺された相沢事件と同年で、司馬の心に深く刻まれていた
出口王仁三郎が教団内で「天皇」に擬されているというイチャモンから、後の首相となる平沼騏一郎検事総監が断行した。平沼自身は官僚でありながら、右翼結社である国本社の総帥を務めていて、本人の「思想的正義」に端を発していた
もっとも出口はこの事件の後に、昭和維新の活動へ参加していくのだが

明智光秀の前例から、江戸幕府は京丹後を京都が窺える要所と認識し、亀岡城には譜代の大名を置き、藤堂高虎の縄張りの元、近世城郭に改築した
綾部に元海賊大名の九鬼氏を置くなど、近場にはおとなしい小大名を配置させている


<堺・紀州街道>

戦国時代の商人によって自立した街であり、大名を寄せ付けない武装から、ルイス・フロイスは「国家のごとき制度」と書き残している
堺商人は江戸の町人とは違い、大名よりも室町人としての誇りを持っており、対明貿易と五山の僧との交流から、禅宗に帰依していた。利休の茶道も禅の死生観に通じていて、武士がそれに惹かれたのも分かる話だ
信長に屈服し秀吉の大阪開発で経済の中心地ではなくなるが、秀吉本人は堺出身者をよく用い小西行長を大名にまで取り立てている

大阪ゆかりの人物として上田宗固を取り上げる
豊臣方の武将として戦功を上げ続ける一方で、一流の風流人でもあった。関ヶ原で西軍についた後、浅野幸長一万石の厚遇召抱えられる。同家の家臣たちは不信に思ったが、小柄をからかった者に刺殺の覚悟を見せ、一同恐れ入ったという。使いに来た宗固に、家康は親しみをもって声をかけたという逸話が残るほど名の知れた武将だった
その宗固は大阪の陣にも出陣し、大阪方の豪傑・塙団右衛門に一番槍をつける大功を立てている


<北国街道とその脇街道>

名は北国街道といっても、滋賀県から福井県への街道
かつて北陸地方には、東国の「蝦夷」に匹敵する「」という勢力が存在した。有乳山(あらちやま)近くに存在した「愛発(あちら)の関」は、大和朝廷との境目となっていた
日本書紀では応神天皇の五世の孫とされる継体天皇は、大和朝廷が後継者に困ったとき、武人である大伴氏と物部氏がむかい入れたという
司馬の推理では、この継体天皇は「越」の支配者であり、軍事上の都合から招かれたとする
当時、満州に高句麗が出現し、朝鮮半島を南下。百済が日本と関係が深い任那国などを侵食しはじめて、大和朝廷はこの地殻変動を憂慮していた。ゆえに距離を置いていた「越」の力を取り込むことによって、半ば自立していた九州の勢力に対抗し巻き返したという

蒸気汽船が現れるまで、太平洋岸は難所が多く安定した航路にはなりえなかった
そのため北前船」の日本海航路が盛んで、福井県の敦賀はその中心的な港だった
敦賀から琵琶湖は山越えながらそれほど遠くないので、陸路を経て琵琶湖の「湖港」も栄えて、近江の国は今以上に交通の要所となった
江戸幕府が四天王の井伊家を彦根に配置したのもそれゆえで、水戸の天狗党は京都に乱入しようとしてせき止められ、敦賀で処刑されている


次巻 『街道をゆく 5 モンゴル紀行』 
前巻 『街道をゆく 3 陸奥の道、肥薩の道ほか』

『街道をゆく 3 陸奥のみち、肥薩のみちほか』 司馬遼太郎

北端から南端へ


街道をゆく 3 陸奥のみち、肥薩のみちほか (朝日文庫)街道をゆく 3 陸奥のみち、肥薩のみちほか (朝日文庫)
(2008/08/07)
司馬 遼太郎

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第三巻は、北は青森~岩手、南は熊本~鹿児島、そして自宅のある大坂・河内とバラバラだ
東京を中心に見ると、本州の北端である奥州と九州南部は<辺境>に見えてしまうが、九州のほうは大陸からの文化流入地であり、現地では周辺というコンプレックスは薄いらしい
それに比べ奥州のなかでも陸奥は、弥生時代に始まる水田文化に遅れをとり、かつ米作に向かない地勢ゆえに、後進地域にされてしまった
古代以来、日本を覆った弥生式水田文化」の価値観とそれに当てはまらない者への差別など、日本人の負の側面にも焦点があたる


<陸奥のみち>

八戸から久慈までの久慈街道を歩く
冒頭にフランス人が東北を肥沃な土地と見なし、「冷涼な本国と比べ神様は不公平だ」と嘆く逸話が引かれる。東北の農業は冷害に悩まされてきたが、それは熱帯産のコメにこだわったからであり、もし牧畜中心の開発がされれば大飢饉は防げたと夢想する
肉食を忌む仏教と全てをコメではかる江戸時代の体制が、東北の貧困の源ではないのか。明治政府も北海道に熱中して東北の開発を先延ばしにし、昭和維新へとつながっていく

陸奥の戦国大名、南部家は、元は甲州の出で、鎌倉時代に一族が遠征し八戸に上陸した。東北への太平洋航路が確立したのは江戸期であり、司馬は決死の航海と想像する(鎌倉幕府の奥州藤原遠征での功績とも伝えられるが、真偽は不明)
久慈には独自勢力がおり、南部家の支配に甘んじたのち、大浦為信が津軽平野へ遠征し平定。秀吉と繋がることで独立を果たした
南部家と津軽家の確執は明治にまで続き、津軽・弘前藩は青森県南部・盛岡藩は岩手県へとなるが、奥羽列藩同盟から官軍に寝返った弘前藩の青森県に、南部家発祥地である八戸が編入されることになる
廃藩置県において、戊辰戦争の論功行賞が反映され、薩長土肥はその居城が県庁所在地となり県名もそれに準じたのに対し、幕府方は県庁を居城とかけ離れた寒村に建てられた
そのほか、早過ぎた尊王家・高山彦九郎の飢饉取材、日本唯一の独自思想家にして農本共産主義者の安藤昌益にも話が及ぶ


<肥薩のみち>

熊本城から八代人吉を経て鹿児島県に入る
肥後は古来より地味豊かとされ、洪水に悩まされながらも、各地に小豪族が割拠できた。比較的強豪だった相良氏でも統一できず、最初に国ごと統治したのは秀吉に送り込まれた加藤清正その卓越した土木技術と豪傑ぶりをもって、肥後人の尊崇を集め、後に入った細川家は熊本のみに留まらず、江戸にも廟を築いて拝んだ
島津家からすれば、熊本城は中央政権の牙城であり、西南戦争で標的したのは本能ともいえた。田原坂では異例にも16日間の戦闘が続いた
司馬は田原坂でその銃撃戦を経験した女性に出会い、その凄まじさを聞く。乃木希典も旅順攻撃の際に、「田原坂の方が凄かった」とこぼしている

薩摩の国境では、江戸の密偵“薩摩飛脚”への抹殺浄土真宗の禁教「念仏停止」へ思いはせる
そうした閉鎖性の反面、薩人には、底抜けの寛容さがある
朝鮮出兵の際に連れてこられた陶工は、その技術から士分に取り立てられ、その陶磁器は「白薩摩」といわれる高級品として藩の財政を支えることとなった。司馬はその一家である沈寿官を訪ね、彼らに薩摩隼人の心意気を感じる
しかし西南戦争以来、鹿児島県民に薩摩隼人は消えたという。なぜか
一つには、薩摩では武士と農民の隔たりが大きく、しかも大勢の藩士を養うために農民は収奪され続けた。そのため農村に富農を生むような蓄積はなく、中間層が育たなかった
そのため隼人の気風は士族のみに留まり、その消滅とともに消え去った。ちょうど『翔ぶが如く』を執筆中にも関わらず、司馬は「薩摩隼人は人工物」と断じる


<河内みち>

北と南の次は、足元を固めたいのか自宅のある河内
近場に引っ越してきた女性に「とうとう河内まで落ちてきたとは、情けないやら悲しいやらで」と言われてしまうが、もともと河内は古代王朝の中心地だった場所であり、場末イメージは今東光の小説『悪名』(勝新主演で有名)によるものだそうだ
戦前には河内王朝の古墳に、楠木正成を輩出したことから、神聖な土地と見られていた
江戸時代には天領ゆえに年貢が安く、農村に資本が蓄積された。富農の一人、中甚兵衛大和川の氾濫に耐えかねて、治水工事をお上に進言。19歳に陳情を開始し、68歳に聞き届けられた。この執念を、司馬は楠木正成と比較する
河内はその名のとおり、酷い沼沢地であり、それを変えたのは農本主義の江戸幕府と、珍しく江戸時代を褒め称えている

平安末期の歌人、西行は、河内の弘川寺に生涯を終えた
西行は元武士、それも北面の武士というエリートであり、若くして教養人として知られたものの、23歳で出家して諸国を放浪した
司馬は知り合いの作家・富士正晴からのしつこい問いかけから、西行の墓を探しに山へ登る。やはり墓は弘川寺の近くにあり、なぜか巨大な円墳をなしていた
近くには、江戸時代に「今西行」と言われた似雲法師の墓がある。似雲は西行の大ファンでその生涯を完全コピーするように生き、同じ場所に葬られた
江戸時代に「梵字学」(サンスクリット)の研究し、今では世界的権威として評価される慈雲尊者の高貴寺にも訪問。西行とともに真言宗であり、河内は密教ゆかりの場所なのだ
(そういえば後醍醐天皇も真言立川流に接したというなあ)


次巻 『街道をゆく4 郡上・白川街道、堺・紀州街道ほか』
前巻 『街道をゆく2 韓のくに紀行』

『街道をゆく 2 韓のくに紀行』 司馬遼太郎

70年代の韓国


街道をゆく 2 韓のくに紀行 (朝日文庫)街道をゆく 2 韓のくに紀行 (朝日文庫)
(2008/08/07)
司馬 遼太郎

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第2巻はほぼ全編、韓国の旅
前巻から古代日本における百済人に注目しており、今回はそれのみならず半島南端の任那などの小国たちと北九州の同質性へ踏み込んでいく
日本人の多くと朝鮮人は、その言語の構造からモンゴル人やツングース系の満州族に源流があると仮定し、その共通点を見つけつつも、その歴史の歩みの分岐点をその国・組織の在り方から見出していく
それは政治倫理の激しさ=朱子学イデオロギー(司馬によると太平洋戦争敗戦の原因)へとつながっていく。しかし儒教社会→アジア的停滞という発想は、まがりなりにも韓国が経済成長に成功した今となっては、整合性がとれないかもしれない
初出が1971年であり、韓国はクーデターの朴正熙政権下。司馬の見た、桃源郷のような農村も、今では様変わりしていることだろう


<加羅の旅>

司馬が韓国を選んだ原因は、日本人の原型は朝鮮人に近いという理由だが、旅を手配する韓国人女性からは「つまりゴウヘイ(併合)しようというのですか」と言われてしまう。日朝同祖論は韓国併合に利用された過去があり、光復(独立)から間もない70年代には今以上に反日の傾向がきつかったのだ
旅も李氏朝鮮に朝貢していた対馬藩の大使館「倭館」へ行くつもりが、秀吉の朝鮮出兵の拠点となった「倭城」に案内されてしまう珍道中に。なぜかそこは動物園となった後、廃墟となっていた
釜山を通る際には、司馬が戦時中に戦車を率いながら迷子になってしまい、現地人に道を教えてもらう話も飛び出る

対馬は島が土地が貧しいため、農業だけではとても領民を養いきれなかった
そのため倭寇に転じ、李氏朝鮮へ朝貢することで米を賄った。江戸時代に幕府は対馬藩へ本土の飛び地を与えたものの、李氏朝鮮との関係は続き明治に到る
韓国の対馬返還論には、こういう元ネタがあるのだ(独立当初から返還論はあるらしい……)


<新羅の旅>

古代朝鮮の一国、駕洛国の開国神話が残る亀旨峰
天から降った金の卵から金首露王が生まれた伝説が残るこの山には、その王陵がある。司馬が訪れたときには、十数人の男が三跪九拝を繰り返しいた
金首露王は金海の金、この地域一帯の金姓の人間の祖先にあたり、王陵はその祖廟にあたるのだ。司馬は李朝500年の伝統が続いているような錯覚を覚える
千年以上前の先祖を自分に結び付ける感覚は日本人には縁遠く、いわゆる歴史認識問題の温度差にも通じるものがありそうだ
ちなみに新羅のシロは新羅語で黄金を指すので、司馬は新羅とツングース系の満州族のつながりを連想している

美術史に疎いと仏国寺を素通りし(!)、地図にもない「慕夏堂」を目指す
朝鮮出兵のときの降倭(降伏した日本人)・沙也可を主人公にした『慕夏堂記』という書があるのだ。沙也可は朝鮮国王から金忠善という名を授かり、朝鮮側の将として多いに戦い、日本の火縄銃の技術を伝えて、女真族との戦いにも活躍したという
その彼が隠棲した村が「慕夏堂」といわれるのだ
『慕夏堂記』自身は沙也可の子孫がそれを称揚するために書いたと言われ、その政治運動が功を奏したのか、異例にも村全体が両班(ヤンパン)に封じられたという
さて、「慕夏堂」=「友鹿堂」である老人に尋ねたところ

 彼女は沙也可とか金忠善将軍とかいうような名前を出し、この村がかつての日本武士の村であるというので、このイルボン・サラム(日本人)たちはやってきたのだ、という意味のことをいった。
 それに対し、老翁ははじめて口をひらいた。低い声であった。
「それはまちがっている」
 と、老翁はゆったりとしていた朝鮮語でいうのである。それはというのは、そういう関心の持ち方は――という意味であった。
こっちからも日本へ行っているだろう。日本からもこっちへ来ている。べつに興味をもつべきではない」
 と、にべもなくいったのである(p170)



<百済の旅>

まずは大邸のホテルで、異例の憤懣を吐く。フロントにマッサージ師を依頼したところ、相場の十倍以上の値段をふっかけられたのだ
フロントがマッサージ師のギャラを撥ねるのみならず、客にふっかけて浮いた金を懐に入れているという仕組みになっていて、これをアジア的構造と断定する
人間でなくシステムの問題として、こうした賄賂を生む慣習と儒教社会のシガラミが絡むと近代資本主義は興せないと展開したが、その後の経済発展は司馬の予測が外れたのが、韓国社会がそこから脱したのか

百済の史跡は新羅に滅ぼされたときに徹底的に破却され、しか残っていないという
旧百済出身者の恨みは深く、司馬が出会った研究者は百済への愛と新羅への憎悪を呆れるほどたぎらせてしまう
百済は魏晋南北朝時代の南朝に親しみ、特にその最後の王・義慈王はその六朝文化に耽溺したという(いちおう唐に朝貢もしていたようだ)
新羅高句麗を包囲するという唐の戦略に乗り、その強力な軍を持って百済を滅ぼす。新羅は名前すら中国名に変えるという思い切った恭順政策を採り、国王が名目的には唐の司令官の配下となる屈辱にも耐えて、唐の力を借りることができたのだ
百済研究者は「忌むべき事大主義の始まり」といってしまうが、新羅はその後、唐が完全支配に乗り出す動きには激しく抵抗し、独立を守り抜いている
半島という大陸の情勢に絶えず振り回される地勢で、統一国家を保つためには、「事大主義」もやもえない戦略だった

最後はなぜか日本の滋賀県
さて、義慈王の降伏後に百済復興させる動きがあり、武将・鬼室福信は日本からの先遣隊を受けて進撃した。しかし、内紛から担いでいた百済王子に殺され、白村江の戦いで日本の援軍は壊滅してしまう
鬼室福信の息子、鬼室集斯は多くの亡命者ともに日本へ逃れ、朝廷は「小錦下」(従五位下に相当)、「学識頭」(文部大臣兼大学総長)と与えた
その集斯は晩年、蒲生郡の小野へ隠棲していたのだ。江戸時代に儒教が一般化すると、儒者たちが集まり、文化六年(1809年)に当時の領主、宮津藩主・松平伯耆守が盛大な祭典を施したという

*蒲生氏郷で有名な蒲生は、「かも→がもう」と一巻でも取り上げられた鴨族」を祖先とするらしい。その証拠に神社も出雲系が大半だという


次回 『街道をゆく3 陸奥のみち、肥薩のみちほか』
前回 『街道をゆく1 湖西のみち、甲州街道、長州路ほか』

『街道をゆく 1 湖西のみち、甲州街道、長州路 ほか』 司馬遼太郎

読破できるかな


街道をゆく 1 湖西のみち、甲州街道、長州路 ほか街道をゆく 1 湖西のみち、甲州街道、長州路 ほか
(2014/08/07)
司馬遼太郎

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いわずとしれた司馬遼太郎の紀行集。1971年週刊朝日誌上に連載を開始し、1996年の急逝により『濃尾参州記』で絶筆となった
文庫では43巻朝日ビジュアルシリーズでは60巻でそれぞれ構成が違い(ビジュアル版では長州路が第10巻)、実家に置いてあるのも文庫・ビジュアル版が入り乱れているので、全部を網羅できるか自信はないが、手に入る分の読破を目指します

最初から言い訳しておくと、文庫版は感想が書きにくい
雑誌の連載順にまとめているので地域がバラバラなのだ。一巻を開いてみると、「湖西の道」(滋賀県)、竹内街道(奈良県)、甲州街道(東京都)、葛城みち(奈良県)、長州路(山口県・島根県)、とこの通り
そして、本文も純粋な紀行文でなく、小説における閑話休題、いきなりタクシーの運転手が入り込むノリが続き、話が飛びます飛びます。「ここの風景を本来、描写すべきだが、書かない」(ええっ)とか、かなりフリーダムである
旅の目的が「日本人の原型を探すであり、歴史小説家としての想像力が勝ってしまうのだろう。とはいうものの、同行者や道々で知り合った人たちの生の声がぞんぶんに拾われていて、取材旅行の様子が偲ばれる


<湖西の道>

記念すべき第1回目は滋賀県の「湖西の道」。滋賀県の古名、「近江」の響きにロマンがあったかららしい
近江の由来は、「近淡海」(ちかあわうみ)で、古代人にとって“琵琶湖”は「近くにある淡水の海」だったのだ(ちなみに、遠江は“浜名湖”)
かつて湖西地方は「楽浪(さざなみ)の志賀」と呼ばれたことから、朝鮮半島の地名「楽浪」との関わりを想像する
楽浪古墳は朝鮮式で、大津市には新羅神社という古い社がある。古朝鮮の新羅は、中国の北斉の属国となったさいに、「楽浪郡公新羅王」をもらっていて、楽浪=新羅といえるのだ
石垣構築の職人集団「穴太衆」に関しても、石造の技術から渡来人の出自を連想する

朽木谷の道編では、朝倉征伐における織田信長の退却を取り上げる
浅井長政の裏切りにあった信長は、少数の側近とともに京都へ通じる朽木谷を通らざるえなかった。推奨したのが主君殺しで有名な松永久秀で、もっとも信長を殺せるチャンスで柄にもなく善人面したところに、彼の衰運をみる


<竹内街道>

二十代の日本語学者ロジャー・メイチンとともに、奈良の旅へ。地名の由来を語り合うが、相手の博識さに司馬も黙さざるえない(苦笑)。石上(いそうえ)神社」の「いそ」は、海岸の磯を連想させ、奈良盆地にはそうした岸を由来とする地名が多いことから、古代の奈良はかなりの沼沢地と推測される
石上神社は本来、森だけだったが、白河上皇の時代に拝殿ができ、明治になって本殿が建てられてしまった。しかし、古代の信仰からすると、森のみが正しいそうだ
石上の森には、崇神天皇が周辺の民から武器を取り上げて納めさせた武器庫があり、大和支配の中心としたそうで、明治七年に言い伝えどおりに掘り起こしてみると、数々の武具、宝物が出土したという

その後は、日本最古の神社と呼ばれる三輪山
もともと大和地方での信仰の中心地であり、ここを支配した出雲族も島根由来ではなく大和が中心だった。出雲系のミワ族は、「大物主命」(おおものぬしのみこと)を主神として崇め、海石榴市(つばいち)で市場を営んでいた
そこへ九州から天照を崇める天孫一族が入ってきて、崇神天皇の代に大和地方を軍事的に制圧する。疫病の際に、帝が自身の皇女を巫女に使ったところ、白髪になって事が収まらず、帝はミワ一族を探し出して祭主としたという
竹内越では、司馬自身の親戚が住んでいたとあって、思い出話に。出征が近くなったときに、ぷらぷらと出かけていたら、赤いセーターの女性に見惚れたという。昭和十八年はまだ、こんな服装が許されていたのだ

ロジャー・メイチン氏は、日本の学界に定着できず、母国イギリスで翻訳業や非常勤講師をされていたそうだ。2002年に心臓発作で亡くなられた。59歳
くわしくはこちらの記事で→http://d.hatena.ne.jp/onigashima/20121029/1372511960


江戸時代を見た英国人―日本及び日本人は彼らの目にどう映ったか (二十一世紀図書館 (0033))江戸時代を見た英国人―日本及び日本人は彼らの目にどう映ったか (二十一世紀図書館 (0033))
(1984/01)
ろじゃめいちん

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<甲州街道>

大田道灌のエピソードから『更級日記』を引用し、騎射の技術をもつ坂東武者を突然変異的であるとして、大陸からの渡来人と結びつける。朝鮮半島のおいて高句麗の台頭から新羅の統一の過程で、百済人二千が東国へ「居く」という記録があるそうだ
家康が関東に入るさい、八王子が要衝として八王子千人同心」という特殊な直臣集団が生んだ。同心ゆえ三十人俵二人扶持という低収入だったが、屯田兵として凌いだ
それでも、武士としての意気が高く、農民出身の新撰組を馬鹿にして誰一人入隊せず、旗本に取り立てられて甲府へ向かう際は嘲笑していたという
その八王子では、熱烈な慶喜ファンである女性二人と知り合う。そのうちの一人、河合重子さんは慶喜を研究するために東京女子大学に入り、空襲警報が鳴り響くなか、古本屋へ出かけたという。しかし、そんな彼女は学者でもなく教師でもなく、履物屋の女主人を営んでいる

(そういう人を生む土壌が文明というものかもしれない)
ということを、大げさでなく思った。大げさにいえば日本にもそのような、つまりいかなる名利にもつながらない精神活動を生涯持続するという人が出てきているということにおどろき、こういう精神を生んだものが江戸文明であるとすれば、江戸の深味というものは存外なものかもしれない(p123)




<葛城みち>

悲しい葛城族の物語である
五世紀半ばに、雄略天皇は皇位継承権を持つ兄たちをことごとく殺し、先帝の重臣・葛城円を一族ごと成敗した。『日本書紀』にすら、この帝は「大悪天皇」と罵られている
この葛城氏は、ミワ一族と同様に天孫一族より前に奈良で勢力を張っていて、その神様が「葛城の一事主命。雄略帝が狩猟していると、その神は帝の格好をして出てきたので、葛城から叩きだし土佐(高知県)に配流したという。そして、そのお話のとおりに高知には、一言主の神社が現存しているそうだ
それから300年後の天平時代、弓削道鏡に運動した人により葛城山へ一言主が戻ったとか

さて葛城山には、鴨一族という謎の民族がいた
彼らは葛城の衰退ともに諸国へ流れ、京都では鴨川、上賀茂、下鴨と名を残し、役行者の開祖である役小角(えんのおづぬ)、『方丈記』の作者・鴨長明を輩出した
役小角は葛城の信仰に対し「神々の時代は終わった」と、新興の仏教に傾倒し雑多の仙術で神々をこき使ったという。先の一言主も昼も夜も働かされてしまった
あまりのことに一言主は時の天皇に頼んで、役小角を伊豆へ流したという逸話がある
背景には、大陸伝来のきらびやかな仏教文化の前に、古代の神々が飲み込まれてしまう社会変化があって、神々は仏の弟子として「菩薩」を授かることで生き延びていく
明治の廃仏毀釈のみならず、古代の神仏習合も国策だったのである


<長州路>

小説の影響か、「司馬ナニガシが長州にくれば殺す」と友人に知らされた司馬(苦笑)。そこから幕末の志士を生んだ気風をイメージしていく
戦国時代は律儀と言われた毛利家が、幕末では「長州人は怜悧で、信用できない」と評される。他の雄藩では、薩摩にしろ、土佐にしろ、会津にしろ、純朴で突き進んでいく印象だが、長州だけは例外なのだ
その答えを、長州藩の経営を見る。長州藩は関ヶ原の敗北で、領国を約4分の1に減らされてしまう。藩主が大名を辞めたいと願い出るほどの窮状を、貿易と塩田で乗り越える
江戸時代、沿岸伝いでも太平洋は難所が多かった。大坂→下関→蝦夷・奥州の日本海ルートが主流であり、北前船」はかならず長州に泊まる
「北前船」の発着港でもある三田尻には、日本有数の塩田が広がっていて、この二つをもって長州は実質100万石という富強を誇った
この農業に寄らない経済こそが、長州の都会っぽさ、怜悧さを生んだと推測している。そしてそれ以前の支配者、大内氏の気風にその淵源を見る

大河に関連づけていうと、当地の吉田松陰に対する敬慕は一段違う。明治の志士でも「先生」とつけるのは、松陰のみである
吉田稔麿にも触れていて、池田屋で沖田総司に切られたことのみが知られる彼の、短い生涯を紹介している
稔麿の生家は松陰に近く、もともと松下村塾に寺子屋のように通っていた。松下村塾はもともと玉木文之進の私塾であり、稔麿の少年時代は松陰の外叔、久保五郎左衛門が面倒を見ていた
12歳に家庭の事情でやめ、16歳のときに松陰が野山獄から出されたことで入門する。翌年、江戸へ行くまでの10ヶ月が松陰に学んだ実時間だった
松陰の評価はその識見を高杉晋作に似ると高く、高等の人物とした。江戸では旗本の家に住み込んで重用され、長州きっての幕府通として活躍が期待されていた
その稔麿の長州人らしからぬ死に様こそが、悪名たかき長州の信をかろうじてつなぎ、革命を成就させたとする


あっ、長く書き過ぎた。次からはちゃんと要約します(たぶん)


次巻 『街道をゆく2 韓のくに紀行』
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