戦時は大本営参謀、戦後は大手商社の役員、「総理の政治指南役」と言われた男の真実
初出は昭和62年(1987年)で、中曽根政権最後の年。瀬島龍三は、第二次臨時行政調査会の委員として辣腕を振るっていた
本書では、戦争指導の負い目を背負い、シベリア抑留を耐え、戦後は商社で大成功という、『不毛地帯』で広がった瀬島のイメージをどこまでが真実か、ひとつひとつ検証していく
陸軍時代から上司の目を意識する組織人で、独自の持論を持たずにその時々のリーダーや風潮に乗る典型的な出世主義者。その保身術はシベリア抑留時代にも生きて、伊藤忠入社後は社長の引き立てでのし上がり、その人脈で政治の世界へも食い込んだ
「政治指南役」という名声のわりに、その実像は無思想のテクノラートであり、軍人というより官僚に近い。目に見える仕事の実績がほとんどなく、強いリーダーシップのもとで各方面の調整役を本領とする生粋の参謀なのである
『不毛地帯』をフィクションだと分かっていても、本書で暴かれる事実には驚く
あまり語られない大本営参謀時代には、大戦末期の台湾航空戦で「空母18隻撃沈」の誇大戦果を鵜呑みにし、それに疑義を挟む情報を握りつぶしていた
この台湾航空戦の誇大戦果に基づいて、フィリピン中心の防衛計画が「凄一号作戦」=レイテ沖海戦に変更されていて、敗戦は必至の情勢とはいえ、数万人の命を左右した責任は重い
シベリアからの帰国後、瀬島が電報を送った情報参謀・堀栄三に告白したというから、まず真実なのだろう
連合艦隊の壊滅で本土決戦路線にシフトしたことから、瀬島は満州国へ転属となり、そこで敗戦を迎える
ソ連との停戦協定に立ち会うが、ここに歴史の闇がある。外務省がソ連との和平交渉において捕虜を「賠償として一部の労力を提供する」という案が存在したというのだ
もし、この案を前提に交渉されていたとすれば、官民60万人のシベリア抑留は日本とソ連の合意によることになってしまう。抑留問題を訴える全抑協は、真相の究明を瀬島に要求していた
*停戦交渉については、ソ連側の証言として元帥ワシレフスキーの「命令」が伝えられただけという話もある→『沈黙のファイル ー「瀬島龍三」とはなんだったのか』
伊藤忠への就職は、当時の女子社員並みの四等社員で、まったく期待されていなかった
戦後二人目の社長となる越後正一が、繊維専業から総合商社への脱皮を図るべく、国防産業への参入を決めたことで、ようやく瀬島は陽の目を見る
第一次FX商戦には関わらなかったものの、「自動防空警戒管制システム」(バッジシステム)を巡って、安価のヒューズ社を引き込み500億円の商戦に勝利する。勝利の裏には、大本営時代の人脈がものをいい、部下には防衛庁の天下り組を揃えていた
しかし、国防産業の癒着が問題視されるのを予想し、国防産業からの撤退を進言しており、ロッキード事件に巻き込まれることはなかった
業務部長に就任した後は、業務部を社内の参謀本部に改造し、縦割りの組織を業務部中心の集権体制に変革した。繊維商社の放埓さを正すことはできたものの、現場を知らない業務部社員が各所で軋轢を起こし、越後体制後は弊害に苦しんだそうだ
越後社長が退くに及んで、瀬島の権勢も低下。名誉職的に累進したものの、田中角栄、中曽根康弘の知遇を得たことで、行財政改革に関わる。鈴木善幸首相、中曽根行政管理庁長官のもと、「第二次臨時行政調査会」(第二臨調)の委員となり、85歳の土光敏夫を担いで各方面の調整に専念した
著者はこの「第二臨調」の在り方を、戦前に大政翼賛会を準備した「新体制準備会」にたとえる。カリスマ的な人物を担ぎ、「危機」を鼓吹して立て続けに答申を出す。第二次近衛内閣の世論操縦にそっくりというのだ
実際、臨調のなかで瀬島は、中曽根を始めとする政治家との折衝に励み、政治から独立して大胆な提言するはずの「第三者の委員会」を世論誘導の機関、首相を目指す中曽根の権力基盤へと変えてしまった
上司受けがいいだけではなく、部下の面倒見もいいという人心掌握の達人ではあるが、過去を糊塗する厚顔さは褒められたものではない。本書が出版された時期には、ずいぶん美化された記事や書籍が出回っていたようで、歴史に対する誠実さに欠けた人物といえよう
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