秋山真之が軍務局長時代に、中国に謀略工作を行ったらしい。尾崎行雄とかも
まじかよ
日露戦争後、日本ではどのような安全保障が構想されたのか。山県有朋から永田鉄山まで振り返る
『昭和陸軍の軌跡』の著者が、
大正・昭和の安全保障、国際戦略の変遷を辿ったもので、
その全てが失敗に終わったことを踏まえた上でどのような教訓を拾うかを本願としている
取り上げられるのは、
山県有朋、原敬、浜口雄幸、永田鉄山の4人で、それぞれがそれぞれの情勢と流れの中で日本の行く末を考えた
四者四様であるのだが、
共通するのは満蒙の確保であり対中国戦略が軸にあること
アメリカに対しては、永田は将来の対決を予見したものの、他の三者同様に
隔絶した工業力から敵対しえないとしていた
日露戦争で得た満州の利権を守り、中国という市場へ参入するには、英米と組むべきか、対抗するためにドイツ、ロシア(ソ連)と組むべきか
永田鉄山の構想は大東亜共栄圏そのものであるし、
原敬・浜口の流れは戦後日本の源流にも思える
山県有朋は日露戦争後、
中国を巡る英米との相克を予想し、戦ったばかりのロシアと組んで牽制しようとした
アジアでまともに国家の形をなす国は日本と中国しかなく、中国に積極的に介入して近代化を助けるとともに、英米の力をアジアから排除していく戦略を持っていた
幕末の志士らしい
華夷秩序の世界観に思えるが、同時に
パワーポリティクス志向の山県は日本のみでは対抗しえないとして、ロシアを引き込む気でいた
しかし、ロシアは大戦中に革命で倒れ、山県の構想は空中分解する
初の平民宰相・原敬は、満蒙を確保しつつ、中国問題を
英米との協調路線で解決を図る
原は大陸国家アメリカの力を正当に評価し、その提携なしに日本の安全保障は成り立たないというリアリズムの戦略だった
ただし、
アメリカを掣肘する力を持たない日本が、「アメリカのなすがままに」陥る危険は払拭できず、シベリア出兵問題では露骨にそれが現れることとなった
原敬の路線を受け継いだ
浜口雄幸は、世界大戦の惨禍から
国際連盟による集団安全保障体制に、「アメリカのなすがまま」を押さえる希望を見出した
ワシントン条約に続く
ロンドン軍縮条約(1930年)を成立させ、財政再建と安全保障を両立する
同じ憲政党の幣原喜重郎によって、
1922年に中国の門戸開放・機会均等・主権尊重を旨とする九カ国条約が調印されていて、
不戦条約(1929年)につながっていく
その一方で浜口は単なる理想主義者ではなく、
総力戦では工業力の多寡が勝敗を決め、日本にそれが足りないこと、集団安全保障下では特定の仮想敵国に対して膨大な軍備を整える必要がないこと、など新時代の安全保障への見通しがあった
ただ、
浜口もまた満州・台湾・朝鮮の植民地領有を前提しており、中国側の要求に譲歩と棚上げで臨まざる得なかった
軍部主導の国家運営を目指した
永田鉄山は、総力戦の認識では浜口雄幸と変わらなかった
ただし、
欧米の情勢を受けて世界大戦は不可避との見方をとり、
総力戦が始まるまえに国防資源の「自給自足」する体制を築くことを必須としていた
その範囲はほぼ大東亜共栄圏と同じで、
満州事変、日中戦争前の北支への浸透は、不足資源を確保するためだった
日本の工業力の貧弱さから、平時においては国際協調の重要性を認めるものの、
国際連盟に平和を強制する実行力を持たないことを見抜き、「平和目的のための軍縮は『順序の転倒』」とした
永田の流れを汲む幕僚たちが行ったのは、
北支工作、インドシナ進駐に代表されるような、英米との直接対決を避けつつ、自給自足の体制を求める「火事場泥棒」戦略である
そして南印進駐で虎の尾を踏むことになる
本書で見えていたことをザッと振り返ると、山県は
攘夷の発想が抜け切らず、
日中の合同で英米列強に当たるという図式に固執したかに思う
原・浜口の路線は戦後日本を思わせる現実路線だが、アメリカの独走を止める術がない。冷戦後の日本も同様に振り回されてきた
永田の戦略はヨーロッパの情勢に煽られた感があり、
かえって日本の選択肢を狭めたと思う
第一次大戦のように、勝ち組が決まるまで待って、それまでは両陣営に物資を売り工業化……HOI脳かもしれないが、そんなシノギ方もありえたのでは
ともあれ、
四者の戦略には満州の利権を保持する前提があって、
一度得たものを手放せない貧乏性が日本人の弱点なのだろう
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