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『ハックルベリイ・フィンの冒険』 マーク・トウェイン

パラドゲー『Victoria』の歴史イベントでも出てきます


ハックルベリイ・フィンの冒険 (新潮文庫)ハックルベリイ・フィンの冒険 (新潮文庫)
(1959/03/10)
マーク・トウェイン

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トムとの冒険で6000ドルを得たハックは、未亡人の家に引き取られる。そこへ飲んだくれの父親が金をせびりに現れたので、街を出ることに。逃亡した黒人奴隷ジムといっしょに、筏でミシシッピー川を下るが、その行く先々には様々な苦難が待っていたのだった

『トム・ソーヤーの冒険』の続編にあたる、家なき子ハックの冒険譚
ハックトム・ソーヤの友人で、アル中の親父に放置されストリートチルドレン化し、街の住人から嫌われていたが、トムとの冒険を通して名誉と大金を手にしていた
そこへダメ親父が舞い戻ったので、家出するのが冒険の始まりだ
村岡花子の短い解説によると、マーク・トウェインは前作を少年小説としか評価されなかったことへの反発があったらしく、本作は単純な冒険小説の体裁をとっていない
主人公は社会の裏側を見てきて世故長けた少年ハックであり、行き当たりばったりの子供ぽっさは残るものの、その目を通して映った世界は前作のように理想化されたものではなく、南北戦争前後のリアルな社会が描かれている
家庭を放棄した暴力親父との関係、黒人奴隷が当たり前の世界、法の及ばない地域での力による解決、悪党とみなした者へのリンチ、……まさにアメリカ社会の底流に流れるものが映し出されていて、ヘミングウェイをして「アメリカ文学の源流と言わしめるのも分かる名作だった

こんな名作が、本国アメリカでは図書館にふさわしくない作品として、問題になってきたらしい
というのも、村岡花子の訳でいう「黒ん坊」が、おそらく「Negro」(ニグロ)という差別用語だからだろう
作中でも黒人を道具視するような表現が多出する。ハックにしても、お助けキャラで登場するトムにしても、人種差別主義者ではないが、黒人奴隷を当たり前とする社会で生まれた人間として動くので差別表現を伴う
もちろん、マーク・トウェインは奴隷制に賛成しているわけではなく、その大反対である
奴隷制を当たり前とする世界を忠実に描くことが、それだけ際どいことを要求するのだ
ミシシッピー川を下る冒険は、共同体の法と慣習から解き放たれた世界だけに、アメリカの“生の原理”がむき出しとなる
これを訳しきった村岡花子は、伊達じゃない

*発禁処分を受けたのは、挿絵のハックの股間が印刷の都合で膨らんでいたかららしい(爆)。ネタ元は関連記事の本


前作 『トム・ソーヤーの冒険』

関連記事 『ハックルベリー・フィンは、いま』

『アンのゆりかご―村岡花子の生涯』 村岡恵理

実物は吉高より美人!?

アンのゆりかご―村岡花子の生涯 (新潮文庫)アンのゆりかご―村岡花子の生涯 (新潮文庫)
(2011/08/28)
村岡 恵理

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『赤毛のアン』の翻訳者、村岡花子の孫による伝記で、今放送中の朝ドラ『花子とアン』の原作本
朝ドラはどじっこで本好きのヒロインが文学の世界に踏み込むような筋だが、実際の花子は少し違う
女学校時代に柳原燁子(ドラマの蓮子)の紹介で、短歌の権威であった佐々木信綱に歌を習い、歌人にして翻訳者の片山廣子から欧米の近代文学を知る。英語力がずば抜けていて、華族の家庭教師として重宝され、日本最初の婦人団体「婦人矯風会」の機関紙に童話や短歌、翻訳小説を掲載していたらしい
かなり早くから文学への情熱をぶつけていたのだ。業界人からダメと言われて引き下がる柄ではない
矯風会のつてで大阪の女実業家・広岡浅子と知り合ったことから、女性の教育、不平等などの社会問題に目覚め、市川房江らの婦人参政権運動にも深く関わっていく
当時は翻訳者の地位が低かったものの、同時代の作家から認められた一流の文学者だったのだ
本書は花子の交友関係が広いため、自然と当時の文学界や社会運動などに触れ、朝ドラのイメージよりお堅い内容が伴うものの、白蓮や夫・儆三の恋文なども引用されて生の交情を知ることもできる
朝ドラに興味はなくとも、当時の社会状況を知る手がかりにもなるので、歴史オタがチェックして損はない

ドラマと大きく異なるのは、家族構成とその状況だ
朝ドラでは山梨の小作農家だが、実際ははな(=花子)が五歳のときに東京品川に移住している。兵隊に言った兄はおらず、はなが長女で、父は彼女の才能に期待して、女学校へ送り出した。はなより下の兄弟がすべて養子・奉公に出されたのは、史実どおり
山梨に留まる設定は方言で視聴者を引きたいからだろうし、小作農家は当時の格差をはなと一家の対比で描きたいのだろう
本書を読むと史実とのギャップに驚くけども、どういう意図でフィクションが作られたか、ポジティヴに受け止めるべきだろう
初恋の人である、澤田廉三の件がほぼ抹殺されているのは、勿体ないけどなあ
ちなみに、ナレーションの美輪明宏が「ごきげんよう、さようなら」で締める理由も載っている。真相は読んでのお楽しみだ

ドラマの絡みで気になるのは、夫となる村岡儆三(ドラマの村岡英治)周辺だろうか
史実の村岡儆三には、病んだ妻と小さい子供がいて、彼は先妻に三行半をつきつけて花子と一緒になる
家庭生活の実態が薄く、当時としてそれほどおかしいことではないのだが、後に花子が一人息子を失ったとき、重大な影響を与える
花子はキリスト教徒でありながら神の存在を疑い、息子が死んだ直後もそうだったが、村岡の妻子から彼を奪った事実に思い当たり、罪の意識に目覚めるのだ
そこで神を「わが子を世界に差し出した愛の持ち主」として捉えなおし、家庭小説の翻訳家としてその愛を目標に置くようになる
こうした独特の信仰がどこまでドラマで消化できるのか。最近の傾向を見ていると、簡単に持ち出す割りに内部ルール(?)から早めに抑制がかかるので、生温かい目で見守ろうと思う


関連サイト 『花子とアン』(公式)

生きるということ―村岡花子遺稿集 (1969年)生きるということ―村岡花子遺稿集 (1969年)
(1969)
村岡 花子

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