なぜ、新左翼は過激な行動を取るようになったのか。衰退の要因を探る
本巻は60年安保の60年から、あさま山荘事件の72年まで。国民と連動していた60年安保から68年の全共闘を経て、新左翼のセクトは過激化し孤立を深めてしまう
1.60年安保闘争とブント
60年安保闘争で大きな役目を演じたのが、「共産主義者同盟(ブント)」。日本共産党の指導を受ける「全学連(全日本学生自治会総連合)」から飛び出して1958年に結成された
1956年のスターリン批判とハンガリー事件から日本共産党は動揺しており、デモ・ストライキすら及び腰への不満からで、「マルクス・レーニン主義」を堅持しつつも革命は大衆運動からしか起こせないと、かなりルーズな組織だった
その中心人物が後に経済学者・青木昌彦で、姫岡玲治・名義で書いた論文が理論的支柱となる。主な結集者が、文学者・柄谷行人、安保闘争で死亡した樺美智子、保守系の思想家・西部邁、政治評論家・森田実に平岡正明
60年の時点では、ブントが全学連の主流派となり、共産党の民青は脇に追いやられ、「極左冒険主義」と足止めする立場となる
その一方で、スターリン批判からトロツキーを再評価する「日本トロツキスト聯盟」→「革命的共産主義同盟(革共同)」が生まれ、そこには後に核マル派の指導者となる黒田寛一、社会党への加入戦術をとる上田竜がいた
日本をブルジョア革命を達成していないとする講座派(日本共産党)と違い、日本をすでに先進国としていきなり社会主義革命を目指せるとする労農派という点で、社会党と新左翼は一致しており、党員の少ない社会党は安保闘争に新左翼を動員することができた
とはいえ、社会党は平和革命路線であり、自衛隊のような近代軍を火炎瓶闘争で勝とうというのは、ロマンにもほどがある。そこで日本で政権をとってワルシャワ条約機構に加盟する戦略を持っていた
もっとも労働組合出身の社会党議員たちは、自民党と国対で渡り合ううちに、3分の1を確保しての憲法改正阻止で満足してしまったようだが
2.セクトと全共闘方式
60年安保闘争は結局、改正を阻止できず、革命の端緒も作れず、新左翼にとって敗北だった
学生の集まりだったブントはその後の方針を巡って解体し、以降は様々な団体が乱立していく
安田講堂へと続く大学闘争は、1965年の慶應義塾大学から始まった。学費の値上げ反対に米軍の研究費を受け取ったことが問題となり、早稲田大学でも値上げ反対の運動が起こる
そこで取られたのが「全学共闘会議」方式と言われるものので、単に学生自治会で行うと普通のノンポリ学生は過激な抗議活動を敬遠するので、“革命意識”の高いセクトの学生が連合して「共闘会議」が組織された。日大や東大でも共闘会議が組まれ、中心的存在となる
そこでは戦う意志のある学生が「前衛」として指導していくので、近代の代議制=多数決で決まらず、声が大きく拍手の数で決める1930年代の翼賛政治であり、全体主義に近い体質があったという
今では左翼とリベラルが同じもののように語られるが、本来のリベラルは自由主義であり、左翼は民主主義にすら拘泥しない党派が主流というのがポイントだ
3.セクトの内ゲバと武力闘争
本書では連合赤軍事件よりも、それに至るエスカレーションを細かく検討していく
各セクトが戦闘的になったのは、1967年10月に機動隊との衝突のなか、京大の学生が亡くなったことから。そこからヘルメットに角材(ゲバ棒)というスタイルが定着する
セクト間の大学の主導権を巡る内ゲバも深刻化し、それぞれが縄張りのキャンパスを持ち、違うセクトの人間が近づけば、バールで足を折って活動不能にする。佐藤氏は特に中核派について、左翼というより任侠団体、愚連隊の系譜ではという
そうした内ゲバの経験から、革命のために殺人を正当化する論理が生まれていく。1970年8月3日、池袋駅の中核派のデモを通りかかった革マル派の学生が殺される事件があり、行動の中核に対して理論を重んじる革マル派は「革命的暴力論」を打ち出した
70年代でも安保や沖縄返還問題、成田国際空港建設を巡る三里塚闘争など世間の支持や同情を得られる部分はあったものの、その過激さからついていけないと見放される
いつしか、学生運動することが、社会からのドロップアウトにつながるような印象すら与えてしまったのだ
1970年以降は中核派の警察やその家族を狙った殺人事件が多発し、関西では京大経済学部助手の滝田修が京大のグラウンド内で軍事教練を行い、社会の中で一人で戦えるパルチザン育成を目指した
もはや、政治運動どころか、テロ組織へと化していく
関西で滝田の影響を受けた、関西ブントの塩見孝也や田宮高麿などは「共産主義同盟赤軍派」(赤軍派)を結成するが、大阪や東京の蜂起作戦に失敗し、海外に拠点を作るために「よど号ハイジャック事件」を起こす
一方で日本共産党の神奈川支部に所属して、除名された中国派のメンバーが「日本共産党神奈川県委員会」(革命左派)を設立。毛沢東主義の集団なので、もともと武器の使用を厭わない
赤軍派は、反スターリンのトロツキストで本来は思想的に水と油。ただ、革命左派が赤軍派の資金を、赤軍派が革命左派の銃を欲しがるという打算が生んだ連合だった。そして、内ゲバも同志間の総括という一線を越えてしまい、新左翼へのシンパシーを葬ってしまった
4.新左翼運動の欠陥と左翼思想の限界
フランスの5月革命が男女平等の進展など社会的な成果があったが、日本の新左翼運動はハイジャック事件から空港の警備が厳重になったこと、テルアビブ空港乱射事件が現代の自爆テロの魁となったこと、政治運動に対する意識が後退し“島耕作的なノンポリの出世主義者”を生み、ひいては新自由主義への下地を作ったこと、とマイナスか微妙な影響しか残していない
とはいえ、左翼の政治指導者やセクトの理論家、設立者たちは知的水準は高かった。にもかかわらず失敗した原因は、佐藤氏によると、左翼思想の根幹に問題があって、「始まりの地点で知的であったものが、どこかで思考停止になる地点がある」という。それはおそらく、人間観の問題で、「人間には理屈で割り切れないドロドロした部分があるのに、それを捨象して社会を構築できるとすること、その不完全さを理解できないことが左翼の弱さの根本」と指摘している
そして、なぜ内ゲバにまで至ってしまうのかというと、「閉ざされた空間、人間関係の中で同じ理論集団が議論していれば、より過激なことを言うやつが勝つに決まっている」(池上)
国家権力を相手にすると、あまりに存在が大きくて全体像が見えないので、権力そのものより、それに迎合する身内が敵に見えてしまう。左翼最初の内ゲバは戦前の共産党による「社民主要打撃論」(社会ファシズム論)で、先に異端を潰さないと革命は達成できないという方向で権力闘争に走ってしまう
5.堕落のススメ
佐藤氏はそれを克服するために、党内にダラ官(堕落した官僚)を許し、現実の風を吹かせる必要があるとする。現代の政治運動には官僚化が欠かせない。それが日本共産党が、唯一の左翼政党として生き残っている要因でもあるだろう
70年代に関東で壊滅した学生運動が、関西で健在だったのはそうした“ユルさ”からで、佐藤氏の母校・同志社大学ではブント的な学生同士の「子供の政治」を社会勉強として容認し、大人が子供を利用しようとする民青、中核派、そして統一教会から守ろうとする良識があった
本巻は両氏の実体験も深く関わって、手前味噌な部分はあるけれども、それだけに偏狭な世界観しか持たない集団が過激派に堕ちてしまう過程が捉え、その問題点を明らかにしている
*23’4/7 加筆修正
次巻 『漂流 日本左翼史』
前巻 『真説 日本左翼史』