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『覇王の家』 司馬遼太郎

『新史 太閤記』と扱っている年代がかぶってた




250年余の長きに渡って日本を統治した“覇王の家”徳川家は、いかにして生まれたか。徳川家康と三河武士の関係を軸に、今川家の人質時代、三方原の戦いから小牧・長久手の戦いまでをたどり、日本人に及ぼした影響を探る

徳川家康という人物が捉えきれないのか、奇妙な小説となっていた
人間の欲望が沸騰していた戦国時代から、大人しい江戸時代の人間が生まれたのは、天下を取った三河武士の気質が影響を及ぼしたのではないか。そして、それは今の日本人の性格にも影響している
そういった仮説から、徳川家康と三河武士の関係を描いていくのだが、主人公にも関わらず家康は不思議な立ち位置にある。信長にしろ、秀吉にしろ、明快なキャラクターをもって登場していたのに、家康に関しては遠くから眺めるような距離があるのだ
三方原の無鉄砲さと石橋を叩いて渡らぬ慎重さが同居し、容易に底が割れない不気味さがどうも小説の主人公として座りが良くない。それは司馬が家康を好きになれなかった理由にもなっているのだろう

尾張国と三河国は現在、同じ愛知県にあっても、戦国時代においてその地域性はだいぶ違う。尾張国河川が密集していて商業が発達し、自然と人間も軽快さと投機性を持ち合わせたのに対して、山がちな三河国堅実で保守的な人間を育んだ
戦国人らしく時勢によって主君を変える尾張衆に対し、三河衆は鎌倉以来の地域内の関係を大事にする。後に天下を制した集団は、実はもっとも時勢に遠い感覚で生きていたというのだ
松平家はもともと山間部の豪族であったが、近隣の酒井家などと連合し、家から英傑が出たときに平野に出て、ようやく大名に近い存在となった。その有り様を遊牧民が農耕民を征服して国家の体を為し始めたと比較するのが面白い
そうした三河武士と家康の関係は単なるご恩と奉公の関係では説明がつかず、信者と教祖(しかも救世主!)に近い。今川家に人質へ出されたときにも、居城の岡崎城を乗っ取ろうとする重臣は現れないのだ
ただそうした熱烈な家臣たちに対して、家康の側も独裁者として振る舞うのではなく、古くからの序列と格式を守った上で操縦している

初出が1973年なので、当然ながら今となっては廃された通説を採用しているところも多い。しかし、そこから掘り下げる読みは侮れない
長男・信康の切腹に関しては、徳姫経由の情報による信長の命令としつつも、酒井忠次が弁解しなかったところに注目。徳川家(松平家)と三河武士の関係を守らない信康に対して、三河衆の代表である忠次が廃嫡を促したとするのだ
家康の正室・築山殿のみならず、信康も人質として駿河で育てられており、三河衆とは縁が薄い。家康も宿老たちと波風立てる後継者を放置できなかった。この部分はリアリティを感じる
また、石川数正の出奔は三河の外の世界を正当に評価できるゆえに、愛郷心と忠誠を疑われて三河衆から追い出された感じで、何やら日本の中小企業体質を思わせる
いろんな華が咲いた江戸時代を、三河武士の作った灰色の時代とするのは短絡的だと思われるが、随所に鋭い洞察があり。作者本人が苦手な題材なのに、なんだかんだ楽しく読ませてもらった


関連記事 『新史 太閤記』



『天下統一』 黒嶋敏

「唐入り」の実態



「天下統一」とは、どういうことなのか。秀吉、家康の対外政策を通して、その意味を問う

「天下統一」というと、秀吉が後北条氏を滅ぼした1590年(天正18年)と学校で教えられている
本書ではこの「天下統一」の定義を問いかけることで、いかなる紆余曲折を経て江戸時代の「天下泰平」にたどり着いたかを明らかにするものだ
「天下統一」とは、一人の君主が直接支配することではない。一つの権威に諸侯が従うこととするなら、源頼朝も前例に数えられるし、秀吉は1590年以前に北条の従属を勝ち得た時期があった
ここで問題なのは、「天下統一」と「天下泰平」の間。秀吉は諸侯を従えたが、一代限りの天下に終わった。いかにして天下人の地位を世襲していくのか
そのために何をもって諸侯を従えるのか。そこに、秀吉、家康の苦心があった


1.武家の支配原理“武威”と朝鮮出兵

秀吉は関白の地位を得て摂関家待遇となったが、あくまで武家である。その支配原理は武力が支配を正当化する「武威
従属した諸侯には一見、寛容に領土を安堵するものの、検地を行って国力を割り出し、寺社や城の普請などを命じる。それに対して反抗する諸侯は、後北条氏のように武力で打倒する

著者はこの論理が「唐入り」、朝鮮出兵にも適用されたと考える
秀吉の「唐入り」は明の征服が目的ではなく、明から「日本国王」の地位を勝ち取ることと、李氏朝鮮を日本に従属させること
当時の東アジアではそれぞれ自国を中心にした華夷秩序をもっており、当時の日本は明は帝国として上位とするが、隣の朝鮮は下位の国とみていた。近代国家同士のように対等の国として見る国際慣習がなかったのだ
その立場を公式に認めさせるために、行われたのが秀吉の「唐入り」だという。国内での豊臣の地位を安泰とするためにも、「日本国王」=外国からの承認が欲しかったのである
朝鮮出兵=秀吉の外交感覚の欠如がもたらした侵略戦争と、単純にはいえないわけなのだ


2.“武威”外交を引き継ぐ家康

武力で相手を威圧し、従属したら「仁政」=寛容さを示すという「武威」中心の政治は、外交的にはハト派に見られる徳川家康にもあてはまる
家康は秀吉の死後に五大老筆頭として、対朝鮮、対明の講和交渉を仕切り、この時点で「天下人」として認められていたとする
対朝鮮では、相手が格下であるという前提を崩さず、朝鮮側から使者を派遣するべきとする。結局、伝統的に李朝と交易していた対馬の宗氏へ使者が来た際に、そのまま江戸には連れてきて、既成事実を作ってしまう

対明に対しては、勘合貿易の復帰あるいは民間の通商解禁を求めるが、はかばかしい結果は得られない
薩摩藩に関ケ原の敗戦を不問とする代わりに、琉球に圧力をかけさせて明との交易を求めるも、「武威」の外交が裏目に出てしまう。進展がでなければ、「ばはん」(=倭寇)の取り締まりを止める、つまり海賊行為に及ぶと脅したのに反発を招いたのだ
家康もまた武家の棟梁を継いだわけであり、国内にアピールするために武力による成果が欲しかったが、存命中に通商の復活はならなかった


とはいえ、大坂の陣で最大の抵抗勢力である豊臣家も滅亡。家康→秀忠→家光と最高権力者の世襲も達成されて、「日本国王」の必要性は薄くなっていく
むしろ、島原の乱など海外との交流が国内の混乱を招く懸念が出てきたため、西洋との交易をオランダに限るなど、国を閉ざす方向へ傾いていくのだった
本書は国内の統一運動と対外政策が密接に結びついていて、家康が武断政治を継続していたことを明らかにしている。東アジア諸国が、自国中心の華夷秩序で他国を位置づけてきたことなどは、今の外交関係にも通じる視点だと思う


*23’4/22 加筆修正



*天下統一シリーズもアルファーになって焼き回しの作品だらけだったが、日本一ソフトウェアの子会社が事業を継承。何か進展があるのかな?

【京都人による京都観光】栗田神社・知恩院

せっかくGW、積み読・積みゲー消化で終わっては体にも良くない。自転車で行ける範囲で、出かけてみることにした
お目当ては天皇が即位した際にしか、公開されないという長楽寺の観音像。ご即位・元号改元記念で、京都の寺社ではいろいろ公開されているところが多いのだ


1.栗田神社

山科から三条通を自転車で越えてきて、目に入ったのが栗田神社旅行安全のご利益があるとなれば、日帰りといえど立ち寄らねばなるまい

栗田神社栗田神社 参道

創建は876年、清和天皇の時代にさかのぼり、従五位上出羽守藤原興世が勅使として祇園社(今の八坂神社)に赴き祈願したさいに、この地に建てるように神意が下ったという。京都の出入り口である、七つ口の一つ栗田道が通ることから、いつしか旅人の神様として参拝されるようになったとか

栗田神社 本堂御神馬2


最近ではブラウザゲーム「刀剣乱舞」の影響で、それに関係するキャラクター「三日月宗近」「一期一振」のゆかりの地として評判になっているそうな
刀剣鍛冶の社は、脇道の小さいにあるのでお見逃しなく

栗田 自動手洗い

自動で出る手水って、新鮮だなあ(笑)


2.知恩院

お次は知恩院さんへ

知恩院

知恩院浄土宗の総本山宗祖・法然上人の草庵が起源とされ、当初はいかなる者も念仏のみで悟りを得るという「専修念仏」に対して、延暦寺をはじめとする守旧派に弾圧され、焼き討ちなど幾度も法難に遭う
本来の場所はもう少し山に近い場所にあり、ここまで豪壮なものではなかったようだ
しかし、「旗厭離穢土欣求浄土」を旗印とした徳川家康が天下をとることで流れは大きく変わる

ちなみに、この門は「三門」といい、そのまま行くと男坂」と呼ばれる段の高い階段を上ることとなる
体調に自信がなくて「俺たちの戦いはこれからだ」ということになりそうならば、左手にある穏やかな坂道「女坂」を利用するべし

御影堂
御影堂の渡り廊下

御影堂は「平成の大改修」(令和になっちゃったけど)にて、公開はされてないが、スケールのでかさに圧倒される


3.方丈庭園

天皇ご即位に合わせて、こちらも特別公開があったので寄ってみる

方丈庭園の看板

重要文化財の大方丈・小方丈は、将軍家や貴人の訪問を受けた時のために、格調の高い書院造で作られている。各部屋には、狩野派の襖絵が豪奢に使われていた
ただ看板にあるような金色かというと、そこまではいかない(苦笑)
かなり絵が剥がれ落ちて劣化しており、往年の輝きは想像で補うしかない。「鳥をあまりに生き生きと描きすぎたから、飛び立ってしまった」という伝説は、むなしく聞こえてしまった
文化財の保護も容易ではないのだ

方丈庭園方丈庭園4

しかし、方丈庭園に関してはガチ。人間が環境を守れば、自然に劣化はない

25菩薩を模した山水
法然上人を迎えに来た25人の菩薩の図を再現した枯れ山水

徳川家光 植えた松
徳川家光が植えたという松。昭和天皇が植えた松もある

権現堂

奥には、徳川家康、秀忠、家光の三代を弔う権現堂がある
中にはそれぞれ三者が洋画の肖像画が掛けられていて、おそらく明治維新後の徳川家によって捧げられたのだろう
徳川の世が長く続いたことによって、これだけ広壮な寺院に発展。維新後に冷たくされとはいえ、京都の市民からは今なお「知恩院さんと親しまれている。そんな歴史の歩みを感じさせる史跡であった


長楽寺は次回にて

次回 【京都人による京都観光】青蓮院門跡・長楽寺

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【NHKプレミアム 英雄たちの選択】『家康、生涯最悪の決断 ~信康事件の真相』を見て

NHKプレミアムの『英雄たちの選択』で、家康による信康切腹事件が取り上げられていた
番組では、信長に迫られた苦渋の決断という俗説を一蹴し、岡崎衆と浜松衆の対立、家康と信康の父子関係の問題として論じられていた。俗説はまったく相手にされていなかったのである
『女城主直虎』でどうだったか、今となってはもう忘れてしまったのだけど(結局、ちゃんと見てないのだ)、家康と築山殿がベビーフェイスであった以上、俗説がとられていたであろう。大河ドラマは所詮、バラエティで、啓蒙などはまったく考えていないか、NHK
信康事件が徳川家のお家騒動であるということが、歴史学の世界では当たり前のことになっていたのだ

岡崎衆を任された信康は、とうぜん徳川家の後継者の位置にあり、あるゲストは家康が「信長中心の天下平定が進み、徳川家が三河と遠江の二国で安定する」と見込んだからだと推測していた
が、実際には信長は本願寺を中心とする反織田勢力との戦いや、荒木村重や松永久秀といった武将の反乱で、四方に敵を抱えて続けた
三河に押し込められた状態の岡崎衆は、家康に近い浜松衆より恩賞が預かれない窓際であり、思春期の信康も織田家の元での平和にフラストレーションがたまっていた
天正7年(1579年)、信康は家康に織田家から武田家への乗り換えを進言したとされ、これを契機に家康は信康を監禁して、築山殿や信康家臣の処断、そして切腹事件へと進んでいく

はたして、家康は織田をとるべきだったか、信康に従っておくべきだったか
ここでホストの歴史学者・磯田道史をはじめ、四人中三人がなんと、「信康に従って、武田家につくべきだった」をえらんだ(爆)
天正7年の時点では、織田家はまだ本願寺と石山合戦の最中。対する武田勝頼は、長篠の戦いに敗北しつつも、上杉家の内紛である御館の乱から信濃北部を獲得し、上野へは真田昌幸が快進撃を続けていて、瞬間風速的には最大の領土を築いてたのだ
もし、織田の母国ともいえる尾張を徳川が突く形になれば、信長もかなり危うい状況に陥っていたであろうという見立てである
この武田勝頼の再評価が、管理人的には最大のサプライズだろうか
信康切腹事件の影に見えるのは、信玄伝来の武田家の諜報力天正2年には岡崎町奉行の大岡(大賀)弥四郎による内応事件が起こったように、岡崎衆の不満を巧みに家康への反感へ育てた。信康の家康への進言は、半ばクーデターに近いものがあったのだろう
当時の戦国大名は20代で家督を譲るケースが珍しくなく(信長の子、信忠も21歳で家督を継いでいる)、信康の不満も分からなくもないとする意見が多かった
後年、家康も「最初は武田家について、信長を困らせていたほうがあとで大事にされただろう」とこぼしていたそうだ

歴史はあるべき方向(?)に動かなかったが、この家康の決断が武田家の伸張に釘を刺す
武田家との徹底抗戦を選択したことで北条家との関係改善が進み、本願寺と和睦した信長ともに三方向からの武田征伐が実現。武田家最大の領土を広げたはずの、勝頼のしぼみ方はまさに天国と地獄で、これもまた何冊か追ってみたいテーマである


関連記事 『家康、封印された過去―なぜ、長男と正妻を抹殺したのか』

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『徳川家康』 下巻 山本七平

最近、本の記事がめっきり少なくなった。分厚い本を読んではいるにしても……




山本七平による徳川家康の評伝。下巻は関ヶ原の敗戦処理から、大坂の陣まで
下巻でも上巻に引き続いて、講談のイメージに引きずられないゼロベースの考察が徹底されている
司馬遼太郎などが描いてきた関ヶ原以後に天下を意識して、いわゆる腹黒、「古狸」に豹変した説を一蹴。それまでの「律義者」「海道一の弓取り」という堂々たる武人としてのキャラクターを保ったまま、天下取りに望み成功したとする
政治家が成功するにはまず権力を握らねばならず、権力を握るために権力欲を持つのは必然。「古狸」イメージは、あくまで西国大名や上方の人間による偏向したものというのだ
もっとも、あまりに常識人過ぎて面白みに欠け、頼られる人間であっても親しまれる人間ではなかったのも確かで、この点において大河ドラマの扱われ方は正しいといわざる得ない
巻末には息子さんが山本七平の遺稿をまとめた経緯、樺太出身の作家・綱淵謙錠との刺激的な対談が盛り込まれ、いろいろ濃厚な一冊である


1.家康の外交政策

下巻では家康の外交能力が高く評価されている
著者はクリスチャンながら、家康とキリスト教の関係を客観的に扱っていて、幕府が禁教にしたのもスペインやポルトガルの姿勢を問題視する。すでに布教活動が植民地化の道具に使われていることを知りながらも、家康はキリスト教自身には寛容であり、貿易にも積極的だった
しかし家康は布教を許す見返りに、帆船による航海技術や鉱山開発のための技師派遣を求めたときに、スペイン側は拒否する。国力の源泉である先端技術を渡すことに抵抗があったのもさることながら、大半が非キリスト教徒の日本を格下扱いしたのだ

オランダのクルーとして日本に漂着したウィリアム・アダムスは、家康のために帆船を建造して見せ、その信認を得る。彼を通じて国際情勢をつかんだ家康は、キリスト教の伝道にこだわらない新教国オランダの方が、貿易の利を追いかけられると外交方針を転換していく
秀吉の朝鮮出兵で冷え込んだ対アジア関係では、第三次の出兵を偽装しながら朝鮮側から通信使を一方的に派遣させることで双方の顔を立てつつ、対明貿易の再開を探っている。島津に琉球へ侵攻させたのも、対明貿易のためだった
すでに明が滅亡間近でこうした動きは功を奏さなかったものの、諸外国に対する家康の細やかな対応は、日本史のなかでも抜きん出ている


2.大坂の陣は淀君のせい


大坂の陣に関しては、著者は淀君戦犯説を唱える。もうボロンチョである(苦笑)
家康が目指した国家は源頼朝を範にした公武を峻別した武家中心の社会であり、関ヶ原以後は豊臣家を一大名として傘下に収めようとしていた
信長に従い、次には信長の配下だった秀吉に従った家康にとって、その時代の強者に弱者が従うのは「常識」であり、なんら不思議な構想ではなかった。豊臣家の滅亡ありきで策謀を巡らせたというのは、家康嫌いの偏見だというのだ
家康にとって大坂の陣は望んだことではなかったが、大坂城の包囲をいわば「諸大名の忠誠試験」に用いた。冬の陣後も豊臣家を幕藩体制に組させようと、関東への移封を条件に出している


3.籠城した浪人たちの暴走

なぜ、大阪方は豊臣家が存続する条件を拒否したか。著者は大阪方に総大将がつとまる人材がおらず、集めた牢人たちの「世論」に支配されたとする。彼らは講和が成立してしまうと、行き場所がなくなってしまう。『真田丸』を思い出すと、苦笑せざる得ない皮肉な結論である
ここらへんは、軍部にかきたてられた「世論」によって対米戦に突入し、あわや本土決戦までやりかねなかった、かつての日本を意識していると思われる
もし、淀君前田利家の妻・芳春院のように江戸へ人質へ出ていれば、著者の言うように豊臣家の滅亡は回避できただろうか。家康が存命中は守られただろうが、秀忠以降になるとけっこうな大名が潰されているので、丁半博打な気もするが


*23’4/24 加筆修正

前巻 『徳川家康』 上巻



『徳川家康』 上巻 山本七平

けっこうガチな分析




江戸250年の泰平を築いた徳川家康とは、どういう人物だったのか? 日本人論で有名な山本七平が、戦国を終わらせた巨人に挑む
徳川家康江戸時代には「神君」と崇められた一方で、当時から「古狸」の評判も高かった。それをイザヤ・ベンダサンこと、山本七平が史料から追いかける。武田信玄の本も出してたりと、この人は戦国にも造詣が深い


1.天下人の先駆者、毛利元就

まず最初に持ち出されるのが、“スーパーじいちゃん”としての先駆者「毛利元就である。数十年の月日をかけて中国から九州にまたがる大毛利を築いた彼を、著者は「不倒翁」と称え、武略においては信長、謀略においては家康を凌ぐ存在とさえ言う
家康は元就の影響を受けたとするものの(根拠はよく分からない…)、二段三段の凄まじい謀計をしかけた元就に比べると、事案の解決には三河の一向一揆など正面からの対決で制するものが多い
家康の本質は優れた武人なのであって、彼の保守性が戦国に堅実な秩序を生み出す一方で、その堅苦しさから嫌われる側面があった。声望はあるが、人望のあるタイプではなかったというのだ


2.今川家と早すぎた近世の法体系

家康の保守性を決定づけたのが、今川氏での人質生活だとする
「人質生活=みじめ」ではないとする著者の指摘は目から鱗。松平家では父・広忠からして今川で養われて家を継いだ前例があるのであって、戦乱で荒れる三河にいるよりも恵まれた状況にあったとする
実際、今川義元の師である太原雪斎の薫陶を受けて、将来の領主になるための高い教育を受けている
その今川家では、鎌倉以来の『貞永式目』を発展させた分国法『今川仮名目録が成立していて、家の相続を長子をもって原則とするなど近世的な法体系が整備されていた
努力しなくても長子が家を継げる相続法は、今川の武士団の弱体化を招いてしまうが、家康に法治の大切さを植えつけたとする


3.強者を認める現実主義者

家康は長い人生において、自分より強者に逆らっていない
秀吉に関東移封を命じられたときも、進んで江戸へ移動し秀吉をかえって唖然とさせている。著者は、関東が北条によって制度が統一されている領土であり、旧武田の甲斐・信濃よりは治めやすいという計算があったとしている
とはいえ、命がけで広めた領国をとられるのは辛過ぎるわけで、屈辱を耐える強い意志をもった現実主義者なのだ
秀吉死後にいよいよ天下取りとなるが、関ヶ原の分析が面白い。西軍の敗戦の原因は三成に誰も従わない「指揮官不在」なことともに、上杉によって家康が東上できないと思い込んでいた点にあるとする
西軍のキーマンとして三成は限定的であり、安国寺恵瓊が毛利輝元を口説き落としたことで関ヶ原が天下分け目の戦いになった。家康視点からは、恵瓊こそが首謀者であり容赦なく処分している

毛利輝元が関ヶ原に総大将として出ていたらどうなったか、あるいは関ヶ原後に秀頼を擁して大坂城に立て篭もったらどうなったか、という著者の提示するIFは微妙な采配で歴史が動いたことを証明している
しかし、輝元は祖父・元就とはかけ離れた凡将であり、毛利家は領土のほとんどを剥奪され、吉川広家に約束された周防、長門の二国の大名になってしまうのであった
上巻では関ヶ原後の毛利家の始末まで。下巻は、島津家と朝鮮との国交回復から大坂の陣が取り上げられる


*23’4/24 加筆修正

次巻 『徳川家康』 下巻



『城塞』 下巻 司馬遼太郎

先週の真田丸は、普段はオープニングに出るスタッフロールが終了近くに出るという奇策が


城塞 (下巻) (新潮文庫)
司馬 遼太郎
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二の丸の堀まで埋め立てて城を丸裸にした家康は、豊臣方へ大坂立ち退きを要求する。拒否すると見越して、豊臣の家系を完全に抹殺するためである。小幡勘兵衛は、お夏が将軍・秀忠のいる江戸へ向かうのを背に、徳川の諜者として豊臣方から引き上げるのだった。敗戦必至の戦いに、真田幸村、毛利勝永、後藤又兵衛といった選りすぐりの武将たちは、ただ家康の首を狙って疾駆する

大坂の陣、最後の戦いが始まる
もはや交渉の余地がない等しい状況でも、徳川家康現状を維持したい大坂の女たちを見透かして、甘い言葉をささやき続ける。夏の陣の直前に大蔵卿たちの弁明を聞いて孫の婚礼の面倒を見させ、幸村が決死の戦闘を始めようとした矢先に和議の使者を送り、組織的な戦闘が終わった後には淀君・秀頼の潜伏先を探るために交渉に応じてみせる。いったい、大阪方は何度騙されたのだろうか
本作における徳川家康は、女ころがしの卑劣漢(笑)。ここまであくどい天下人が描かれたことがあっただろうか(笑)。本当かどうかはさておいて、これが大坂人に語り継がれる古狸・家康なのである
しかし、こうした家康の悪知恵も、秀忠でも治められる泰平の世を作るため
隙あれば大阪方を指揮して天下を狙おうとした小幡勘兵衛が、大人しく家康の陣所への案内役を務めたことに家康はほくそ笑む。こういう能力があって鼻息の荒い人間を諦めさせて、物分りのいい凡人に変えてしまうことこそ、平和の効用なのである
普通なら長い泰平の到来を歓迎すべきところを、苦虫を噛み潰すように描いてしまうのが、江戸時代嫌いの司馬らしい

家康の立ち回りにくらべ、死を決した牢人たちの戦いは清々しい
長曽我部盛親木村重成は、徳川家の先鋒である藤堂高虎の一軍を壊滅に追い込んだ。しかし、救援に来た井伊直孝の軍を相手に木村重成は死に、盛親も敗走する
後藤又兵衛は道明寺の戦いで、一足はやく徳川の先鋒と戦い、伊達政宗の軍と衝突して多勢無勢で戦死。この戦闘で伊達勢は消耗し、幸村最後の戦いに活路をもたらすこととなる
真田幸村毛利勝永は家康の偽装停戦に苦しみつつも、いざ決戦となると数倍する敵の先鋒を蹴散らして、家康本陣へ切り込む
数の上では倍以上である関東方の苦戦は、実戦経験のある優れた将帥が少ないから。関ヶ原のように外様に手柄を立てさせないために譜代中心に動かしたものの、水野勝成のような身代の軽い者に大軍を委ねなくてはならず、本多忠朝のように経験の浅い猪武者をけしかけて先鋒にさせねばならない
家康は死んでも幕府は健在だろうが、その下の天下はより不穏なものとなっただろう。江戸250年の泰平も、紙一重のところで決まったのである

本作は司馬作品なかでもかなりの傑作だと思えるが、ひとつだけ気になったのだが上巻であれだけ存在感を放っていたお夏がただ一行で結末が語られてしまうこと。いざ合戦ともなれば、女たちの出る幕ではないものの、小説としては小幡勘兵衛とのドラマを期待したいところなのだ
司馬の小説だと、意味深に登場した女性がなんとなくフェードアウトすることがけっこうあって、本人が自嘲するように「男性専科の作家」なのかもしれない
解説に山口瞳の司馬評が載っていて、「作家は患者(=どこかに問題のある人間)で、評論家は(患者の弱点を指摘する)医者だと思っていたが、最初から医者である人間が作家になった」「(従来の)小説家の資質とかかわりのない男が、いきなり小説を書いた」解説の大島正によると、司馬の文章は必要以上に読者と会話したがっているらしい。司馬が書ききらない行間の間を、読者がそれぞれに埋めて楽しんでしまうようだ


前巻 『城塞』 中巻

甲陽軍鑑 (ちくま学芸文庫)

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『歴史対談 徳川家康』 山岡宗八 桑田忠親

今年の大河のMVPは、内野聖陽



家康はなぜ悪役になってしまうのか? 大長編『徳川家康』を書き上げた山岡宗八と歴史学者が英雄の実像に迫る

徳川家康というと、江戸260年の泰平を築いた天下人にも関わらず、関ヶ原から大坂の陣までで「古ダヌキ」のイメージが強い。今読んでる司馬作品『城塞』がまさにそうなのだけど、長生きしてしまうと晩年の印象が残ってしまい、それがゆえに誤解も大きい
本書では26巻にも及ぶ大著『徳川家康』を著した山岡宗八が、戦国時代と茶人が専門の歴史学者で、大河ドラマの時代考証も手がけた桑田忠親と対談し、数々の逸話や史料から虚実をふるい落として、大政治家の実像を探っていく
初出が1979年とファーストガンダムのテレビ放映と同年。新左翼の事件が冷めやらぬ時代を反映して、山岡が「同じ革命でも、中国人は気が長いから成功したけど、日本人は短気だから連合赤軍のようになる」(笑)とぶちあげるなど、飛躍した比較や脱線もある。ただしそれもご愛嬌で、実利一辺倒に見える家康を様々な角度から論じて、その思想、哲学を導き出している


1.ゴッドマザー、華陽院

鉄の結束を誇った三河武士団だが、家康以前はそうでもなかった。なにしろ、祖父の清康、父の広忠は家臣に殺されているのだ
なぜがそれが家康のもとで団結するようになったかだが、対談では「家康(幼名・竹千代)が幼くして当主になったから、みんな可愛がったのでは」とやや苦しい推測がなされる
その説を補完するように浮上するのが、家康の母方の祖母・華陽院。最初は水野忠政に嫁いで、家康の母・於大の方を生んだ
しかし、そのあまりの美貌から、家康の祖父・松平清康に講和の条件に譲り渡されることとなる。清康は三河を統一し、三河に所領を持つ水野家を圧迫していた

清康の死後、華陽院は先妻の子・広忠と、忠政と自らとの娘である於大の方を婚姻させ、家康が今川家に人質されていたときには、付き添って養育に当たったという
今川義元から当主として育てる許可を取ったというから、とんでもない女性である
ちなみに、娘の於大の方関ヶ原前後に高台院(北政所)の元に通うなど、家康の覇権に協力していて、広忠との離縁後に嫁いだ久松家は、徳川の譜代として松平姓を賜っている


2.家康の宗教政策

現実主義者の側面が強くて、いまいち分かりづらい家康の宗教観だが、山岡宗八は天台の加持祈祷や修験道、禅宗、「厭離穢土 欣求浄土」の旗印で有名な浄土宗と幅広い豊かな宗教心の持ち主と強調する
三河一向一揆では、講和に一揆側の物資や本領を没収しないことと、首謀者を殺さないことを条件とし、家来の帰参を寛容に認めたという
実際には一向宗の寺に改宗を進め、従わなければ破却したらしいが、ここで家康が宗教の強さと根の深さを思い知ったのは間違いない

本能寺の変後に信濃・甲斐の戦乱で荒れた寺社へ寄進し、旧武田家の遺臣たちをひきつけたりと、宗教勢力と対立するのではなく、巧みに政治利用していく
キリスト教の禁止と鎖国に関しては、秀吉と同じく人身売買や植民地化の恐れがあったのと、キリスト教内部の新旧対立が一因。家康の顧問となったウィリアム・アダムスが旧教陣営であるスペイン・ポルトガルの帝国主義を強調し、新教国であるオランダとの独占貿易へ導いたのだ
家康の代には、秀吉以上に朱印船が出されており、この時代に海外で多くの日本人町が生まれている


3.天下を私物化せず

興味深いのが、家康の天下国家に関する考え方。対談では天下をとってもそれをひとつの家系が独占するものとは考えず、それが藤原惺窩→林羅山の朱子学にひきつけられた理由だとする
江戸幕府では、将軍家に適任者がいなければ、尾張、紀伊の分家から後継者を出すこととなっており、その過程を「副将軍」である水戸家が差配する。実際には老中以下の合議制が発達して後継者がいまいちでもなんとかなり、血筋が絶えない限り、そういうことにはならないのだが、ともあれ血筋の濃さが将軍の正統性にはならないのだ。そこに天下を私物化しない、敬天の精神があるという

この精神は、徳川慶喜の大政奉還にも通じるといい、水戸学以前に家康がこうした考えに到っていたと山岡は推測する
徳川家康はこの朱子学と同時に、兵法指南役として柳生宗矩を登用。その全国各地に散らばる門人をスパイとして活用しつつ、石舟斎の「活人剣」=「ほんとうの強者は戦わずして勝つ」の精神を武士道のスタンダードにして、荒々しい戦国の気風から清く正しいサムライへ誘導しようとした
小説同様に家康を理想化していて、出版された年代から古い史料に基づいてしまうものの、講談のフィルターを剥がして時代を作った大巨人に迫る面白い対談だった


*23’4/24 加筆修正

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『城塞』 上巻 司馬遼太郎

織田信雄や有楽ら、零落した織田家が謎の存在感


城塞 (上巻) (新潮文庫)
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関ヶ原の戦いから十年余。齢七十を越えた徳川家康は、おのが目が黒いうちにと「豊臣家打倒」へ動き出した。徳川家の諜者として、元武田家家臣の兵法家・小幡勘兵衛は、大坂城下へ送り込まれる。勘兵衛は、淀君付きの侍女・お夏と不思議な男女の仲となり、関東方でありながら大坂に肩入れしていく。一方で家康から豊臣家の家老に任じられた片桐且元は、徳川家の言い分を飲むことが豊臣家と自らの安泰になるとしていたが、方広寺の鐘銘事件をきっかけにドツボにはまっていく

大坂の陣を扱った司馬の長編作品
主役級に小幡勘兵衛景憲をマイナーでメジャーな人物を持ち出したのが、意表を突く! 小幡勘兵衛は甲州流兵学の祖として知られ、武田家滅亡後に徳川家に仕えた後に出奔して諸国を放浪していた。大坂の陣では豊臣家に属しつつ、城中の情報を関東方に流したことから、もともと徳川の諜者であると考えられている
本作の勘兵衛は、徳川家のスパイとしての役目を持ちつつも、兵法家としての本能から迷走する豊臣家に助言してしまうという矛盾した行動を続けてしまう。しかし感情的な行動が、お夏や淀君、大野治長から、無類の信頼を得て、トップシークレットに関われるのだから、勘兵衛の複雑さは加速度的に増していく
大坂城は淀君を頂点に一万人の女たちが住む、世にも珍しい女の城であり、勘兵衛と関係を持つお夏はいわばキャリアウーマン。勘兵衛を対等というより、下郎として利用しようとするツワモノだ。『真田丸』のきりのように男たちを混ぜっ返すのだが、大坂城の女社会というバックボーンがあるから、まったく不自然に思えずはまっている
勘兵衛と似たような葛藤を抱える片桐克元など、ひとりひとりの著名人がそれぞれ異彩を放っていて、その共演が楽し過ぎる。歴史小説はやっぱ司馬である

司馬は江戸時代と徳川家康が嫌いである
しかし、徳川家康が250年の泰平を築いたのもまた事実。そういう彼を嫌いながら、どう評したか。片桐且元が豊臣家を追い払われたことを聞いて、「気の毒したな」ともらした場面では……

 こういうあたりがこの謀略家の人臭いところで、かれのこの情義深さにひかれてひとびとはついてきていた。もっとも人臭いというより、他人に情義深いということじたいが、大将たるものの資質で、かれ自身、ながいあいだそのように自己教育してきた。それが、政治的効果のある場面々々でごく自然に出るように家康はなっているのである。家康にとって人情も酷薄さもすべて政治であったが、かといって不自然でなく、かれ自身が作為しているわけでもない。そういう人間になってしまっている点、つまりかれの先蹤者である信長や秀吉があれほどの政治家でありながらなおなまな自然人であったことにひきかえ、家康はかれらのように天才でなかっただけに自分を一個の機関に育てあげ、まるで政治で作られた人間のようになってしまっていた。(p592)

普通の人間なら美徳して認められる行ないでも、家康は政治的効果を狙ったある種の演技になってしまう。政治家として完璧であることは、人間としてつまらないのだ
大坂を「天下の台所」として秀吉の業績を引き継いだ点から、家康が変化を恐れる「事なかれの政治家」とも評しているが、これは朱印船を奨励し“交易将軍”とも称された点から不当なものだろう
ともあれ、隙がないから小説家としては、晩年の家康は愛敬がないというわけだ
小説ではこの政治的怪物を補佐するブレーンたちも、百鬼夜行のように登場する。父譲りの謀略を振るう本多正純、仏教界の制覇を目指す金地院崇伝、107歳の長寿を誇った天海入道、朱子学を幕府に定着させた林道春(羅山)。崇伝、天海、道春が功を競う方広寺の鐘銘事件は、それぞれが悪知恵を存分に振るい、それをなだめる家康を含めた構図は、まるで特撮の悪の幹部たちの会合を思わせる
天下を治めるご政道には、こうした後ろ暗い知恵も不可欠であり、利害より正義を追究する単純明快な淀君たちと対照をなすのだ


次巻 『城塞』 中巻

『関ヶ原合戦と大阪の陣 戦争の日本史17』 笠谷和比古

サイコロの目のように天下は決まる



関ヶ原の戦いは本当に天下分け目の戦いだったのか? 豊臣から徳川政権への移行期を、俗説に囚われずに分析する「戦争の日本史」第17巻

『真田丸』も関ヶ原が近いので急いで読んだが、まさに目から鱗の一書だった
本書は関ヶ原の戦いが江戸幕府260年の礎となったという従来の見解に対して、戦後に大幅加増されたのが豊臣系の有力大名であることに着目して異を唱える
関ヶ原の論功行賞は徳川の優位を決定づけるものではなく、秀吉が家康に備えて東海道に配置していた子飼い大名を西国へ移すという、あくまで東国での優位を確立するものに過ぎなかった
豊臣家が65万石の中堅大名に転落したというのも真っ赤な嘘であり、実際には西国に御料地が点在していて隠然たる実力を誇っていた
二条城の会見の際にも、家康は秀頼を対等に近い存在として気を遣っており、関ヶ原後の大譜請にも豊臣家を狩り出さなかった。いや、狩りだせる立場にはなかった
関ヶ原の戦いは形式的に豊臣政権内での主導権争いなのであって、家康も豊臣政権の第一人者としての立場に縛られており、それから抜け出すために征夷大将軍が必要となった
著者は関ヶ原後の政治体制を、関白が約束された豊臣家と征夷大将軍の徳川家の、二つの公儀が並存する「二重公儀体制と見なしている


1.関ヶ原は豊臣系大名同士の戦い

なぜ、関ヶ原の戦いで徳川の天下が確立できなかったか
それは実際の戦場において、豊臣系大名である福島正則や黒田長政らの存在が大きく、本多忠勝や井伊直政らの先遣隊を除けば、家康自身とその旗本衆がかろうじて参加したに過ぎなかったからだ
徳川の戦闘部隊は、中山道の秀忠隊に集中していて、秀忠の遅参が重要な一因となる

ただし、秀忠の遅参は彼個人の責任ではないと分析するところが本書の白眉である
そもそも、小山の評定の後、家康はなぜ江戸に留まっていたのか。直接的には上杉の南進への備え常陸(現・茨城県)の佐竹義宣の去就が定まらないこと。さらに大きな要因として、小山の評定の際に石田三成-大谷刑部ラインの謀反と見なされたことが、その後宇喜多秀家、毛利輝元をも巻き込んで政権を二分する事態にまで発展したことだ
秀頼の出陣まで想定すると、豊臣恩顧の将を中心とする先鋒がいつ旗幟を翻してもおかしくない。動きたくても、動けなかったのだ


2.先鋒隊の活躍と論功行賞への影響

家康は福島正則たちの反応を窺うこととし、秀忠にまず上田城攻略を命じていて、実は秀忠の行動にまったく落ち度はなかった
しかし、福島正則たちが進んで岐阜城へ落としてしまったことで状況は一変。もし、福島たちだけで決着がついては立場がないと、家康は急遽、西上する。この家康の臨機応変の行動が、結果的に秀忠遅参という状況を作ってしまったのである
吉川広家が東軍に通じたことで南宮山の毛利軍が動けないと知った家康は、関ヶ原に戦場を設定。あとは、小早川秀秋が予定どおりに裏切れば、勝利は手にしたも同然だった

しかし、石田軍が戦場で大砲を使用(榴弾?)するなど思わぬ健闘を見せたことから、秀秋は日和見を始めてしまう。もし、秀秋の内応が遅れて、南宮山の毛利軍が動き出してしまったら、東軍の勝利は危うかったという
小早川秀秋は越前転封から再び筑前30万石に復帰する際に、徳川家康の協力を受けており、西軍のなかでも怪しいと評判になっていた。土壇場で事前の予定どおり、動いたことで東軍の勝利は決定づけられる
ただし、実戦場には豊臣系の大名が活躍しており、徳川家とその譜代大名は全国の3分の1の知行しか掌握できず、徳川の天下とは程遠い状況だった


3.戦間期の「二重公儀体制」

家康は当初、関ヶ原後の政治体制を豊臣と徳川の「二重公儀体制」を目指した。西国における豊臣系大名の存在を考えるとそれが現実的であり、秀吉の遺言に沿って秀頼と秀忠の娘・千姫との婚姻も整えている
なぜ、そこから家康は豊臣家滅亡を考えるようになったか
それは始まったばかりの江戸幕府の体制が、家康個人の声望に頼ったものだったからだ
豊臣政権内の第一人者として、豊臣恩顧の大名は家康に従ってくれるが、後継者の秀忠に対してはそんな義理はない。もし、家康の死後に秀頼が関白に任官した場合、秀忠の影響力は相当、限られたものとなってしまう。下手すれば、室町幕府の関東公方扱いもありうる


4.幕藩体制への道

転機になったのは豊臣系の有力大名である加藤清正、浅野幸長が相次いで亡くなったこと
降って湧いたように、方広寺の鐘銘事件が持ち上がり(徳川方の難癖ともいえないらしい)、これを機会に「二重公儀体制」の終焉を目指す
家康個人としては、織田家を秀信や信勝が継いでいるように、豊臣家の断絶を狙ったわけではなく、冬の陣後には大坂城からの立ち退きと一大名としての存続を和議の条件としている
和議では本丸を除く大坂城の破却が決まっており、徳川方が外堀だけでなく内堀を騙して埋めたというのは、俗説だそうだ
大阪の陣に関しては、従来どおりながら、真田勢の活躍に隠れがちな木村重成、毛利勝永、後藤基次(又兵衛)の働きも詳述され、読み応えたっぷり。これを読む限り、大阪の陣のMVPは、毛利勝永だと思う


本書は驚くべき事実が掘り返されているわけではないけれど、冷静な分析で講談的想像力に彩られた歴史像を一新してしまう名著であります


*23’4/24 加筆修正

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