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『ソ連知識人との対話』 西尾幹二

農奴と奴隷主の国?




後に「新しい教科書をつくる会」で有名になったニーチェ研究者・西尾幹二によるソ連紀行
年代は1977年のブレジネフ政権下で、経済が停滞しつつもソ連がもっとも安定していた時代とされる
日本文芸家協会とソ連作家同盟との交流で、毎年の三人の文学者が親善旅行に招待されていていて、著者は作家の加賀乙彦、高井有一とともに1977年9月から一ヶ月間、各地を旅することになった
タイトルは“対話”となっているが、相手がソ連のインテリなので建て前論に終始しやすく、なかなか本音を引き出せない。せいぜい、なんでそんな建て前を守らねばならないか、推測するのが関の山だ
しかし、著者のイデオロギーにこだわらない、ロシア帝国との連続でソ連を歴史的に解釈する視点は鋭く、低迷する管理社会に耐えて「なにかを待つ」ロシア人の精神を捉えていた
文章も堅めの内容ながら分かりやすく、「つくる会」嫌いの人も気にせずに読めるはずだ


1.公務員化した作家たち

著者は社会主義になんらシンパシーをもたない人なので、自然とソ連の体制には批判的になる
招待してくれたソ連作家同盟国費で文化人を養う組織で、約8500人の作家が所属し、それぞれ一定の発行部数と収入が保証されている。闇で流通し黙認されている“サミズダート”などの例を除けば、ソ連における作家は公務員と化しているのだ
ソ連の担当者は西側より文学に親しんでいる人間が多いと、統計的数字を上げて誇示するが、ソ連には大衆文学と芸術文学との境界がないので、実情は分からない
ソ連の文学はソルジェニーツィンなどの例外を除き、お寒い状況だったという。半ば政治宣伝のために作家たちは養われ、工業製品的に作品が流通しているかのようだ
著者一行が国に生活を保障されて良い作品が生まれるか、と問いかけると、相手が半ば認めてしまった(苦笑)
一行を出迎えるガイドや担当者たちは、批判を真っ向から受けず、うまく受け流す。意外に柔軟なクレーマー対応である


2.敎育では熾烈な競争

「社会主義国家=どこまでも平等」とイメージを持つが、必ずしもそうではない
たとえば教育では大学、党員を目指した日本顔負けの受験戦争が起きている。物理学などの理系分野ではセンター試験ならぬ全国コンクールが行われ、上位者にはエリートとしての将来が約束される
小中学校では、成績上位者にメダルが授与されるなど競争に駆り立てる仕組みがあって、著者は戦前の日本に近いとすら言う
おそらく、身分上昇する機会が勉強やスポーツなど学生時代に限られているからだろう
その一方で、完全雇用を実現するため、ある職場には無理に不必要な人員を雇うなど、効率性の悪さも目立つ。結果、週に二日しか働けない人ができ、普通に働ける職業とは格差が生じてしまう


3.本質は道義国家

印象的なのが、唯物論を掲げるのに「社会主義は人間の心を大事にする」と言いはること
この時代のソ連は資本主義のある部分の優位を認めつつも、道義において社会主義は清潔であるとする
ソ連は精神の優越を説く「道義国家でもあるのだ。ただし、その道義を守るために鞭が振るわれる
著者はそこにソ連人の後進国意識を見、ロシア帝国との連続性を指摘する
人間関係においても、公務員社会であるからか自分の職務の範囲では、相手の事情など一切考慮せずに強権を振るい、振るわれる相手も大人しく従う。狭い一角ごとに小皇帝と奴隷がいるようで、アメリカに亡命したソルジェニーツィンすら、そんな調子だったそうだから根は深い
こういう耐える社会ではなかなか変化が起こらないが、いずれはたまりたまったエネルギーが革命として噴出し社会を転覆してしまうのだ
直に接した経験値からすると、佐藤優の本に分はあるが、たった一ヶ月のガイド付き見聞にしては深い


*23’6/23 加筆修正




【DVD】『戦火のナージャ』(2010)

DVDのタイトルには「THE EXODUS」




1941年6月、ドイツ軍がソ連へ侵攻した。収容所に囚われていた元師団長コトフ大佐(=ニキータ・ミハルコフ)は、空爆で収容所が破壊され逃亡することに。その娘のナージャ(=ナージャ・ミハルコフ)は父が死んだと聞かされ少年少女団に入れられていた。1943年1月、ドミトリ・アエンティーフ大佐(=オレグ・メシーコフ)は独ソ戦中にスターリンからコトフの消息について指摘され、調査を乗り出す。ドミトーリとコトフには深すぎる因縁があった

映画『太陽に灼かれて』の続編。しまった! 二作目から観てしまった…
全体主義国家に全体主義国家が攻めてくるとどういうことになるのか。全編に渡って壮絶な光景が繰り返される
監督とその実娘が演じる親子は戦場を流転して悲劇を伝える視点キャラで、地獄の情景そのものが主役といえる映画だ
親子の逃避行である1941年と、ドミトリが追跡する1943年を行ったり来たりと場面の時系列が複雑で、コトフとドミトリの間柄も前作を前提に進むので背景をつかむのに時間がかかる
ラストの場面もここで終わるのか、という突然の幕!
おそらくは三部作と構想されていて、この作品は中継ぎ的な位置付けのようだ


1.電撃戦下の地獄

2時間36分の尺に複雑な構成、それでも欠伸が出ることはない
悲惨な展開もすることながら、画面に力があるからだ
避難民が渡る橋を爆破する赤軍、ささいなことから空爆を受けて転覆する赤十字の船、機雷にしがみついての洗礼、ジプシーを皆殺しにするドイツ兵、報復に丸焼きにされる村人たち…
きわめて自然主義に、ときには宗教的に優れた映像感覚で描かれる
ドイツ兵の演技に関しては、いい役者が揃わなかったのか芋っぽさが否めず、コトフが重要人物を捕らえる場面などロシア流のユーモアなのか、まるでコントのように見えてしまったが、こと戦場描写には妥協がない
筆舌に尽くし難いのがコトフが配属された懲罰部隊の防衛戦で、しょっぱなに対戦車砲が破壊されてからは文字通りの蹂躙を許す
ドイツ戦車に追われる兵士は次々と轢死していき、生き残った兵士たちに止めの銃弾が見舞われる
両脚を失ってなお生きている隊長など、ハリウッドでも見られないグロ表現のオンパレードなので鑑賞には注意しよう
華麗な電撃戦の下では、このような惨劇が起きていたのだ


2.スターリンへの怒り

作品に貫かれているのは、独裁者と戦争に対する怒り
冒頭にコトフの夢としてスターリンの顔をケーキに押し込む場面があり、要所要所に白いスターリンの偶像が登場する
代表的なのが、ナージャが機雷に乗って沿岸まで漂った後、彼女を見捨てた船が離した機雷に触れて爆発するところで、党幹部の愛人が乗せたシャンデリアともにスターリンの像が落ちてくる
因果応報的な演出は手放しに褒められないが、爆弾で吹き飛ばしたいという製作者の怒りが伝わってくる
ナージャの所属した少年少女団では、彼女の反党的発言を友人が密告する場面があり、子どもにすら「党が真の親」と言わせて洗脳する病的な教育が行われていた
ベッドの上で死んだ独裁者を許さず、必ず映画で裁くという決意がうかがえる


*23’5/10 加筆修正。前作の『太陽に灼かれて』は、まったく作風が異なり、コトフの死亡とナージャの行方不明が字幕に出て、ドミトリが自殺するラストだった。。本作は設定を転用したヴァリアント(異伝)的な作品で、単純な続編ではない


前作 【DVD】『太陽に灼かれて』

『餓鬼  秘密にされた毛沢東中国の飢饉』 ジャスパー・ベッカー

疑似科学は恐ろしい



毛沢東の掛け声のもと始まった大躍進は何を引き起こしたのか。中共政府が隠蔽し続けてきた飢餓の実態を暴露する

文革の被害は映画のテーマになって有名な半面、その前の「大躍進」については詳しく知られていない
それは中共政府の政策と重なるもので、鄧小平が毛沢東を「功績第一、誤り第二」と総括したためで、文革批判はともかく「大躍進」については臭い物に蓋をした状態が続いている
なぜかといえば、当初は「大躍進」を有力幹部のほぼ全員が成功を信じていて、それには鄧小平、胡耀邦、趙紫陽ら後の改革開放路線の人間も含んでいるからだ
「大躍進」をまともに総括することは、共産党を否定することにもつながってしまう
本書ではガーディアン紙の特派員として天安門事件を報じた著者が、党内機密とされた資料と関係者への取材を元に、1958年から1962年まで続いた失政とその影響を指弾する


1.ソ連のトンデモ農法

そもそも「大躍進」はスターリンの五カ年計画にならった、中国の近代化をはかるものだが、必ずしも工業化だけを意味するものではない
毛沢東たちはソ連で実施された「農業の集団化」と最新の科学的手法をとれば、収穫量の倍増、三倍増が実現すると本気で信じていた
農民たちも共産主義だから配給があると信じて自前の食糧を浪費し、大躍進の最初の数ヶ月、地方によっては一日五食、食いきれないほど食べるユートピアが演じられたという
しかし、毛沢東らの自信の源であった最新の農業技術とは、すでにソ連で飢餓をもたらしたトンデモ農法だった

ソ連では遺伝学が否定され、環境が動植物の性質が決定するという農業化学者ルイセンコの理論が支配的で、これは母羊のしっぽを切ればしっぽの切れた子羊が生まれる、と喩えられた
彼の根拠はスターリンの教え(!)で、政治家の哲学を科学に当てはめるという無茶苦茶なものだった
ルイセンコから派生して、異種交配で農業英雄になったミチューリンは、メロンとカボチャの交配を成功させたと喧伝され、アメリカ人技術者の息子、ヴァシリー・ウィリアムズは化学肥料を廃して輪作(!)と畑を必要以上に深く掘ることを提唱した
こうした全てがソ連農業の収穫を大きく押し下げたといわれ、ソ連のプロパガンダを鵜呑みにした毛沢東たちは、丸々受け入れてしまったのだ
ある地域では水田を掘りすぎて沼地と化してしまったという
既存の科学をブルジョア科学と否定した上に、疑似科学にしがみついて大飢餓を引き起こしたというのだから、国民はたまったもんじゃない


2.カニバリズムの伝統

下巻においては、最大のタブーともいえる人食が語られる
ただ「大躍進」のみならず、歴史を振り返っても中国大陸において「人食」が他地域より起こりやすいものだったとする
飢餓時に人食が起こるのは全世界で見られる現象であるが、「復讐」としての「人食」という習慣があり、憎い敵の人肉を食うことでパワーを得る、集団の結束を固めるといったことが信じられていたそうだ
こうした習慣そのものは世界各地であったりするものの、仮にも近代国家の体裁を整えた社会で行なわれた例は少ないだろう
最初、読んだときはオリエンタリズムに思えたが、原典がほとんど中国人だったりするので、もう唖然とするしかない
第13章「飢餓とはなにか」には、人間が飢えたらどうなるか、克明に書かれている。いわゆる難民がどういう暮らしをしているか、想像する助けとなるはずだ


3.農民と家族を解体

「農業の集団化」は共産主義のイデオロギーにかなったものだった
マルクス・レーニンの共産主義にとって、農民は敵であり、家族制度もまた敵だった
「人民公社」は農民から土地を取り上げ労働者に変え、家族を解体する目的に使われた。文革において父を批判する運動も家族解体が目的であり、「大躍進」に連なるものといえる
大躍進失敗後も、人民公社はプロパガンダとして生き続ける
なだたる知識人や指導者が「人民公社」を称え、アフリカやアジアで「農業の集団化」を行なわれた
その代表がクメール・ルージュのポル・ポトで、100万人以上が餓死したと言われる。北朝鮮の飢餓もこれと似たようなものだろう
本書の巻末に、読売新聞の元中国特派員の解説があって、今の中国の現状も書かれている。合わせて読もう


*23’4/15 加筆修正



【思想】ネット社会と全体主義

珍しくまとまったお休みを頂いたので、今まで考えていたことを書いていきたい
まあ、いつも通り不発弾かもしれないが、書きながら次へのステップになればいいかと

冷戦が終わって世界が資本主義という単一のイデオロギーに統一されて、全ての紛争が内戦として現れる「帝国以後」の閉じた世界になった、としておこう
その中の人間にとって、IT技術の発達がどう影響するか、という点でもやもやしていたのだけど、ヒントになる言葉が見つかった

経済成長神話の終わり 減成長と日本の希望 (講談社現代新書)経済成長神話の終わり 減成長と日本の希望 (講談社現代新書)
(2012/03/16)
アンドリュー.J・サター

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以前紹介したこの本は、経済成長を“目標”とすることの危うさを指摘したものだが、ネット社会の傾向に対しても警鐘を鳴らしていた

 昔は、即断即決が求められたのは英雄だけだった。でも現在は、誰もがそうしなければならないプレッシャーを観じている。この、即座に反応しなければならないという感情は「切迫感」と呼ばれ、現代社会のあらゆるレベルで蔓延している。
 日常生活のレベルで言えば、技術の進歩によって、本当はそんな必要などないのに、反射的に行動するのが常になってしまっている。
・・・(略)・・・即座に行動することが「できる」ので、別にそうする必要がなくても、即座に行動してしまう。しないといけない、他人はそうすることを期待しているに違いない、という気になるのだ。(p231-232)

著者はこれを「切迫感文化」と呼び、「良いものをつくるには時間がかかる」ということを忘れさせてしまった、と嘆く
重大なのは民衆の政治判断にまで影響することで、本来の民主主義は時間のかかるめんどくさいものなのに、分かりやすいフレーズに飛びついて決断してしまう
そもそも古代ギリシャの民主政などは、奴隷制で労働から解放された市民という名の貴族によって為されていたわけで、「勤労」を義務づけられた日本国民には民主主義を行なうゆとりは少ないだが、ネットの効率追求はさらに考える習慣を削ってしまうだろう

もう一つ重大な影響を与える分野が金融
インターネットで情報が即座に共有され、世界で年がら年中、市場が開いているため、常に決断が要求される。会社は投資家の機嫌をうかがって四半期の実績に終始し、投資家は短期間で最大の利益を狙う
結果、近視眼的なものの見方が定着し、長期的視野に立った進退ができなくなる

 切迫感のもっとも大きな問題は、イノベーションと変化を過剰に賛美する文化的・イデオロギー的な素地を作り出すことだ。そのような素地を持つ世界では、「創造的破壊」はマーケティング戦略ではなく、抗し難い魅力を持つ自然の法となる。この「切迫感」を維持するツールがある。その名は「費用対効果分析(CBA)」だ。(p233)

CBAはもともと新古典派に基づく指標で、原則的にすべての規制を敵とみなし、イノベーションや自由市場もろもろを善と仮定する
既存の規制に対して、規制による「費用」がいかに「便益」を上回っているを分析して攻撃する
その「費用」に、規制がなければ生まれるはずだった「便益」=「機会費用」を含めるのが常套手段で、さらに将来の価値を減価することで導く「割引率」を駆使して、どんな規制にも理論武装できる思想的ツールなのだ
イデオロギー無き時代の、イデオロギーといえようか
「経済」は政治イデオロギーに対して“中立”という誤解があるので、イデオロギーと自覚されない点で怖い代物である


さて、こういうネット社会の特徴と全体主義はどう接着するのか
ネットにおける個人とは、世間のしがらみ、縁から完全に断ち切られた状態で、一見これ以上なく自由な「個人」である
それなら誰にも邪魔されず自由に判断できるから、例えば、ネット上の選挙が定着すれば理想的な民主主義が実現する……かというと、まったくそうはならないだろう
まず「自由」過ぎることが仇で、考えるための足場を得づらい
何でもありなので、どこから入りこんでいいか分からない。そのため、とりあえず予備知識をということで、お手軽なところに基礎を求める。お手軽な場所には同じような人が集まるので、とりあえず孤独感は感じなくなる
そこに、時間効率を追い求めるネット文化が加われば、流行のフレーズに乗っかって「分かった気」になること受けあいで、孤独からも即座に解放される。そもそも情報が乱舞する環境そのものが考える力を奪うので、ブロードバンド環境はゲームばりに毒があると見るべきだろう
ネットに比重を置かざるえない現代人は、かつてなく原子化され、CBAのような巧妙な理論に対して苦もなくひねられる脆弱な存在なのだ


関連記事 【思想】富野の全体主義論(コラム)
       『経済成長神話の終り 減成長と日本の希望』

*2013’3/1 改題と加筆修正。既存の言葉に言い換えた。造語って難しい

『ヒトラーの経済政策 世界恐慌からの奇跡的な復興』 武田知弘

ナチス視点の経済史

ヒトラーの経済政策-世界恐慌からの奇跡的な復興 (祥伝社新書151)ヒトラーの経済政策-世界恐慌からの奇跡的な復興 (祥伝社新書151)
(2009/03/27)
武田 知弘

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ヒトラーはどうやって世界恐慌からドイツを脱出させたのか。ホロコーストなどの虐殺・恐怖政治から全否定されやすいナチス・ドイツを経済政策の面から再評価する
・・・というわけで、主に経済の面からナチス・ドイツの開戦までの政策を褒め称える内容なのだが(苦笑)、その論じ方のピントがずれている
著者がナチス時代のドイツが偏見を受けているという前提で述べているものの、当の日本人はナチスのイデオロギーには相容れないながら、当時のドイツが置かれた状況に同情的で、各方面のヒーローに関してはそれなりに評価してきた
三島由紀夫はヒトラーとレームで戯曲を書いているし、『アドヴァンスド大戦略』系のゲームでは堂々と連合国に復讐するストーリーが語られているのだ(笑)
それなりに情報を持っている人間からすると、「ヒトラーは経済を知っていた」という史伝小説な持ち上げは余計なだけで、タイトルも「シャハトの経済政策とした方がすっきりした
本書の主人公は、(著者は副主人公と言い張るが)ヒャルマール・シャハトなのだ

前半は失業・福利厚生の政策が中心で、文面どおり読むとまさにユートピアだ
しかし、注意深く読むと、楽園の裏側が見えてくる

 ナチスは、景気対策で企業の業績が上向きになったのを見て、配当制限法という法律を作った。
 これは資本の6%以上の配当をしてはならない、というものである。もし6%以上の利益が出た場合は、公債を購入することが義務づけられた。
(p67)

企業の利益を強制的に取り上げているのだ。こうして集められた公債を公共事業の原資とする
個人に関しても同様に財形貯蓄を賞揚し、満期になるまで引き出せない定期預金を作った。これもほとんど国庫へ向う
ドラッカー『経済人の終り』で、上・中流を徹底的に搾取し、下層階級に手厚く配給すると指摘していた通りだ
では、下層階級が貧困から脱出できたかというと、それも怪しく、ナチの「越冬プログラム」を紹介するところで、「景気が良くなった1938年でも、国民の25%がこの越冬プログラムを利用していた。(p119)」と書かれている
底辺に飴を与えつつもそこから上昇させず、公共事業に依存させて政権基盤にしていたのだ

著者は「今の日本にもヒントになる」と無理繰り書いているが、ほとんど参考にならないだろう
戦前・戦後のケインズ政策は焼け野原状態だからこそ短期的に有効なのであって、モノやインフラが揃っている現在日本でどれほどの効果があるものか。震災復興や地震対策にしても需要に限りがあるだろう
そもそも戦前の日本は、各国の総力戦体制を研究して追随しており、この本で揚げられている国民への福利厚生は賞味期限が切れて久しい。どれだけ社保庁がいらんハコモノを作ったものか
あえて言えば、シャハトのあの手この手の錬金術は、財源確保、デフレ脱却の手法として参考になるのかもしれない(管理人はデフレ克服=不況脱出という考え方に懐疑的だが)


関連記事 『ヒトラーとケインズ』

『「空気」の研究』 山本七平

ゲーム分室にまた広告が出てしまった
無理繰りでも更新してやるか

「空気」の研究 (文春文庫 (306‐3))「空気」の研究 (文春文庫 (306‐3))
(1983/10)
山本 七平

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「あの時の空気からいって・・・」「あのころの社会全般の空気も知らずに批判されても・・・」「その場の空気も知らずに偉そうなことを言うな」。日本人の行動を決定づける「空気」の正体とはいったい何なのか?
『ユダヤ人と日本人』に比べると、少し難しかった
導入こそ具体的な話から入るものの、論が進むごとに「臨在感的把握」「日本的情況倫理」「オール3民」など長い熟語に加え、独特の造語も飛び出すので、そのつど頭の整理を余儀なくされる。また、たとえ話に共産党ネタを持ち出されても、知らない人は乗りにくいだろう
しかし、本書は「空気の研究」に留まらず、それを掣肘してきた「水を差すの“水(=通常性)”」にも踏み込み、日本人の根底にまで入っていく鋭さがある
一神教の世界観の解説が長かったりするが、キリスト者の著者が日本人の宗教性を浮き彫りするための思考過程。比較から分かることもあるので、長話につき合って損はない

「空気」の源が“モノ”、物に神が宿るという物神崇拝、アニミズムにあるとするところにはギョッとしたし、頭の中で収まらないままでいる
本書では自動車の排気ガス規制の問題が取り上げられており、自動車が裁判の対象となったとき科学的検証よりも本来、人間を対象にするはずの倫理的判断で裁かれていく
イタイイタイ病裁判の過程にもそういう心理が働いていて(科学的にどうなのかは管理人にはわからなかったが)、今でいうと原発の「放射線被害」ならびに「再稼働」が絶好の具体例といえるだろう
さて、このモノに神が宿るという感じる感覚を著者は臨在感的把握と呼ぶ

 臨在感の支配により人間が言論・行動等を規定される第一歩は、対象の臨在感的な把握にはじまり、これは感情移入を前提とする。感情移入はすべての民族にあるが、この把握が成り立つには、感情移入を絶対化して、それを感情移入だと考えない状態にならねばならない。従ってその前提となるのは、感情移入の日常化・無意識化乃至は生活化であり、一言でいえば、それをしないと、「生きている」という実感がなくなる世界、すなわち日本的世界であらねばならない。(p38)

その例として、冬場にヒヨコが寒かろうとお湯を飲ませて殺してしまった老人の話と保育器に懐炉を入れて赤ん坊が死んだ話が挙げられている

・・・・・・ヒヨコにお湯をのませたり、保育器に懐炉を入れたりするのは“科学的啓蒙”が足りないという主張も愚論、問題の焦点は、なぜ感情移入を絶対化するのかにある。というのは、ヒヨコにお湯をのまし、保育器に懐炉を入れるのは完全な感情移入であり、対者と自己との、または第三者との区別がなくなった状態だからである。そしてそういう状態になることを絶対化し、そういう状態になれなければ、そうさせないように阻む障害、または阻んでいると空想した対象を、悪として排除しようとする心理的状態が、感情移入の絶対化であり、これが対象の臨在感的把握いわば「物神化とその支配」の基礎になっているわけである。(p39)

自他の区別がないとなると、どこの子供だと言いたくなるが、「相手を自分の身になって考えろ」と教えられたことはあるだろう
大人が子供に教えるのだからこれは根深い。いちおう、その次には「相手と自分を同じように思ってはいけない」と教えることになっているはずだが

こうした「臨在感的な把握」から来る空気の支配はアニミズムを源とするが、昭和期より前ではこれを「恥」としていたという
著者によると江戸時代までは仏教や儒教の世界観によって把握されていたが、明治維新によって解消し「和魂洋才」と西洋の技術だけを取り入れればいいとする明治的啓蒙主義(福沢的啓蒙主義)によって混乱が生じたのが事のはじまりらしい
実際は西洋の生活習慣を取り入れたことで旧来の世界観は破壊され、かといって西洋の価値観を受容したわけでもないから、「空気」を抑える、経験則から生み出された「水を差す」という行動もとれなくなってしまったというのが著者の分析だ
しかし、この「空気の支配」、一概に日本だけのものとは思えない
9.11直後のアメリカは理性的ではなかったし、財政危機のユーロ圏は経済が悪いのに緊縮財政に舵を切って恐慌が続いている
伝統的な価値観が急激な社会変化の末に喪失され、「空気の支配」で場当たり的政策が採られているように見える
山本七平の思想は旧日本軍の経験から来ており、富野監督の“日本発の全体主義論”と通じるところも多い。現代の全体主義を考える上での参考文献として本書をお薦めしたい

『経済人の終り』 P・F・ドラッカー

単行本は文字が大きくて読みやすい

ドラッカー名著集9 「経済人」の終わりドラッカー名著集9 「経済人」の終わり
(2007/11/16)
P・F・ドラッカー

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第一次世界大戦後、なぜ全体主義がヨーロッパに広がったのか。ドイツから亡命したドラッカーが29歳のときに発表した処女作
巻末にある初版の序文に触れられているように、初版は1939年ながら、元の論文が書かれたのはヒトラーが政権についた1933年まさに全体主義が進行する現場で本書は編まれたのだ
まえがきで「政治の書」と宣言し舞台をヨーロッパに限定しつつも、ブルジョア資本主義とマルクス社会主義への失望が全体主義の興隆を招いたと指摘し、そこに陥らないために「第三の道」を探せというメッセージは戦後の欧州を先取りしていたかのようだ
戦後以降の序文では、自分の予想とずいぶん違ったという漏らすものの、欧州の危機や資本の移動に振り回される世界経済を見れば、本書の問題提起は今なお通用してしまう

当時の政治と経済の話から踏み込んでいるので、アーレントの本よりは読みやすかった
ブルジョア資本主義は、経済的進歩こそが個人の自由と平等を促進し、私の利益を追求することで自由で平等な社会が訪れると期待した
対するマルクス社会主義は、私の利益を廃止することで自由で平等な社会が実現するとした
面白いのが、この相反するように思われる二つの立場の前提に、経済人」という概念があることだ

 経済的満足だけが社会的に重要であり、意味があるとされる。経済的地位、経済的報酬、経済的権利は、すべて人間が働く目的である。これらのもののために人間は戦争をし、死んでもよいと思う。そして、ほかのことはすべて偽善であり、衒いであり、虚構のナンセンスであるとされる。
 この「経済人」の概念は、アダム・スミスとその学派により、「ホモ・エコノミコス」として初めて示された。「経済人」とは、常に自らの経済的利益に従って行動するだけでなく、常にそのための方法を知っているという概念上の人間である。(p44)

社民主義者の経済への楽観ぶりが以前から不思議だったが、これで分かった。人間は放っておいても利益を追い求めるので、経済は自然に成長すると素朴に考えていたのだろう
しかし、「経済人」への信頼は1929年のアメリカ発大恐慌でもろくも崩れ去った
この「経済人」に代わる次の概念を作ろうというのが、彼の経営哲学の原点なのか

・・・・・・経済の成長と拡大は、社会的な目的を達成するための手段としてしか意味がない。社会的な目的の達成を約束するかぎりにおいて望ましいものであるが、その約束が幻想であることが明らかになれば、手段としての価値は疑わしくなる。(p35)

『マネジメント』の片鱗がすでに表れている

巻末にチャーチルの書評、旧版のまえがきや序文がまとめられていて、ドラッカーがその時々の本音をもらしている
アーレント絡みの文章が面白くて、多くの全体主義関連の本のなかで彼女と私しかその本質に触れなかったと言い、『全体主義の起源』を「感動的」とさえ評しつつも、ドイツ知識人のスノッブと非政治性を批判したことに彼女もその例外でないとチクリ
実際は全体主義の性格や反ユダヤ主義の解釈などアーレントと共通するところの多いのだが、「私の本が最初だった」と念を押すところは、亡命ユダヤ人同士でライバル意識があるような(笑)
ドラッカーの全体主義はナチス・ドイツ中心でアーレントと少し方向性は違うものの、分かりやすいこちらの方が「全体主義」を考える入口としてお薦めできる

『全体主義』 エンツォ・トラヴェルソ

いい本を見つけたと思ったが

全体主義 (平凡社新書)全体主義 (平凡社新書)
(2010/05/15)
エンツォ・トラヴェルソ

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そでの煽り文句に「ファシズム、ナチズム、スターリニズムを、一括りに<全体主義>と呼ぶことは、いったい何を隠蔽することになるだろうか。・・・」とあったから、現代の全体主義の議論があるのかと思ったが、違った
「全体主義」という言葉が各時代でどう扱われてきたか、を主題にしたものだったのだ
しかも、知識人の動向や政治背景を中心にした“政治思想史”というより、思想“政治史”と呼びたい内容だ。余りにもマニアックな視点で、最初は誰得かとも・・・
とまあ、少々当てが外れたのだが、読んでみれば面白い
知識人がこの言葉を使う時には、それに伴った政治状況があるのであって、アーレントなどの一部を除いては、その大状況を超える言葉としては提示できない
各時代の著名人がそれぞれの立場に囚われて、安易に「全体主義」という言葉を使ってしまう様子が克明に描かれているのだ

全体主義」という言葉は、イタリアで生まれた。第一次大戦の総力戦から「全面戦争」が連想され、そこから転じて「全体主義」となった
イタリアのファシストにとって、「全体主義」は危機に陥った自由主義を乗り越えるための肯定的な表現だった
ドイツでナチスが政権を握り、ユダヤ人などの亡命者がアメリカなど各地に逃れると流れが変わってくる
抑圧を受けた当事者たちが、当然ながら「全体主義」を批判的なものに捉え喧伝し始めた
ややこしいのが、当時は「共産主義」と「全体主義」が別物に見られていたことだ。大戦が始まるまでは、イタリアやドイツの「全体主義」を「共産主義」への止む得ない対応とも一部の人間は考えていた
その見方も独ソ不可侵条約によって崩壊し、スターリニズムも「全体主義」として考えられるようになる
が、独ソ戦が始まるやそれも一転。「共産主義」を「人民民主主義」として捉え直し、全体主義的側面には目をつぶるようになるのだ。大戦に勝つのにソ連の協力が不可欠という政治事情のためだが、知識人がそれに乗って大政翼賛しちゃうのは醜いったらない
で、戦後の冷戦が始まると、再びソ連を「全体主義」国家として扱い始めるのであった・・・

著者が言いたいのは、いろんな政体を十把一絡げに「全体主義」として扱うことで、それぞれの特殊性・背景を見逃すなということだ
その点で、ハンナ・アーレントは第一の優等生。「全体主義」を使うときには近代の源泉まで辿って独自の概念として規定しておき、アイヒマン裁判など個別の事例に対しては使わない
著者が他に評価するのは、アーレントと同時代のヘルベルト・マルクーゼ(知らな~い)。また、不朽の命題を持つ作品として、ジョージ・オーウェルソルジェニーツィンを挙げていた
本書は流行ものの言葉がどういった背景で使われているか、裏読みする必要性を暗に訴えているようで、他の新書を読む時にも心したいと思った

『ロシア革命』 E・H・カー

いい小説がないので、実地の全体主義をあたってみた



共産勢力が武力蜂起に成功した「十月革命」から、戦時共産主義、ネップを経て、スターリンによる農業の集団化までを追ったロシア革命史

ソ連邦崩壊前に書かれた本なのだが、なかなかに刺激的だった
マルクス主義の世界観に導かれて世界革命に駆り立てられるトロツキーから、閉じた帝国を志向するスターリンへの権力の変遷が鮮やかなに描かれる
政治局の書記長という裏のポジションから牛耳るスターリンは、自ら派手に攻撃することはせず、表では穏やかを装う。20年代のスターリンは2ちゃんの襖を開けるAA(!)とは間逆の、まさに隠然とした“影の独裁者”なのだ
目の前の政敵を倒すために他の幹部と同盟を組んだかと思うと、事が済めば次の標的に使う。そして、政敵が政治生命を失った後に、その政策を借用する
共産党の組織構成を利用したせいなのか、そのやり口は文化大革命と重なるところも多い
著者が左翼寄りのせいで(岩波から出ているのである)、レーニンに甘かったりする部分もある。しかし、史家のプライドからか、実際の経済に対する分析は厳しく、ときに辛辣なブラックユーモアで非難する
政治面は情報公開後の史書と照らし合わせる必要があるが、この時代のソ連経済を知るには充分な良書だ


1.最初から破綻していた農業集団化

この本の大きい主題の一つが、農業の集団化の評価
その前段としての、ネップ導入の経緯が面白い

・・・・・・当初、地主とブルジョアには強制が適用されるが労働者の労働は自発的な自己規律に規制されるだろうと期待されたが、この期待はすぐに裏切られた。あらゆる工場における選挙制の工場委員会による生産の「労働者統制」は、革命の最初の興奮に刺激されて権力奪取に重要な役割を演じていたが、たちまち無政府状態を作り出す手段と化した。1918年1月の次第に増す危機的雰囲気の中で、レーニンは意味深長に、「働かざるもの食うべからず」という有名な言葉を、「社会主義の現実的信条」として引用した。また、労働人民委員は「サボタージュ」と必要な強制策について言及した。レーニンは出来高払いと「テイラー主義」―労働効率向上のための流行のアメリカ的システムで、かつてはレーニン自身、「機械への人間の隷属化」として非難していた―を奨励した。・・・・・・(p36)

社会主義はかなり初期の段階で失敗していたのである
「労働者=勤労」という性善説ともいえる前提が崩れ、思ったような経済運営ができなかったのだ
ネップによって一部に市場経済を導入し活性化をはかるも、ネップマン(ようは成金)たちは穀物を買い占め食糧難に乗じたボロ儲けを狙う始末。豊作にも関わらず都市が飢えるという事態が発生した
こちらのケースは市場経済への理解が薄くて、規制が下手だったということだろう(戦中戦後の日本では、食管法に基づいて国が買い上げていた)
農業の集団化は、食料供給の安定というか調達(!)し、ネップマンというイデオロギーに反した存在を抹殺する強硬手段だった。また、工業化の論理を援用した大規模農業が劇的に生産力を上げるという仮説がそれを後押ししたのだ
こうして見ると、スターリンのソ連とはワンマン社長に振り回されるブラック企業に思えてくる


2.スターリンとピョートル大帝

スターリンによる急進的な工業化に関して、著者は肯定的
理由はこれなしにナチス・ドイツの侵攻を食い止められなかったという評価である。これは意見の分かれるところだろう
スターリンは大戦前に軍幹部の多くを粛清して、その機能を低下させていたのだから猶のことだ
また、歴史家のせいか、著者が強調するのは、ロシア帝国とソ連の継続性である
民衆を犠牲にして工業化させたスターリンを、帝政のピョートル大帝と重ね合わせ、ロシア近代化の指導者と位置づける
これもまた何かが抜けている。全国的に展開されたテロルの連鎖は、独特の現象なのだ。そうした時代の特殊性の軽視については、巻末の解説で指摘されている
少し偏ったところもある本書だが、経済分析としても政治劇としても充分読み応えあり。大戦前のソ連の史書としてお薦めだ


*なんだかんだ、ソ連経済は体制が固まると安定して成長しだす(それ以前が酷すぎるという裏があるが)。そこにちらつくのが、アメリカの影である
大型ダムに重工業の進展には、多くのアメリカ人技術者が関わっている。そして、農業の集団化の前提となった、トラクターに関しても半分以上がアメリカ製だった
本書では触れられないが、第二次大戦でもレンタリースで多くの物資がソ連にもたらされ、兵員輸送車などでその機械化作戦に貢献している
ここまでくると、ソ連が超大国化したのはアメリカの支援があったからと、陰謀論のように考えてしまう
アメリカが終戦直後にソ連に甘かったのも、市場としての価値を見出していたからだろうか?


*23’4/16 加筆修正

『全体主義の起源 3 全体主義』

なんとか3月中に読むことはできた
しかし、濃い
本来なら1年使って読み砕くべき本

全体主義の起原 3 新装版 (3)全体主義の起原 3 新装版 (3)
(1981/07/01)
ハナ・アーレント大久保 和郎

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この巻でついに「全体主義」そのものの核心に入る
前巻、前々巻の流れで、「反ユダヤ主義(イデオロギー)+帝国主義=全体主義」と安易な図式を思い描いたが、本巻で語られるのはそんな単純な方程式ではない
様々な問題が堆積するうちに、社会の底が抜けて地獄の入り口が開いたと喩えられようか
アーレントが全体主義のモデルとしているのは、ナチス・ドイツの「第三帝国」ソ連の「スターリン体制」(本書ではボルシェビズム)であって、イタリアのファシストなどは政権掌握後に普通の独裁政権になったので、全体主義とは見なされない。戦前の日本もおそらくそうだろう
アーレントの語る「全体主義」の特徴をざっくり箇条書きすると・・・

・全体主義運動の原理はテロリズムである。構成員に絶えず、執行人と犠牲者に割り振ることで存続している
・全体主義運動にとって、指導者の無謬性は絶対条件。それによって、運動内の階級が平準される
(誰もがテロリズムにより執行人と犠牲者になりうる)
・全体主義は専制政治とは違い、構成員の内面も支配する
・全体主義にとって、「運動」が本体であり、「国家」はファサード(障壁)である
(だからヒトラーは戦争末期にすら、人種絶滅政策にこだわった)
・党内でも同じように、幹部が本体で、党員はファサード(障壁)となる。軽い党員は世間の評判を良くし、幹部には党員こそ世間であると誤解させられる
・体制内のテロリズムを止めるのは、テロ対象の枯渇、人手不足

本書が書きあげられたのは1951年であり、その後「第三帝国」「スターリン体制」の内部が明らかにされていく中、アーレントが考えたほどの「全体主義」ではなかったことが分かった。しかし、「全体的支配」などの概念は確かに現代政治にある最悪の可能性を捉えていると思う
全体主義の実現に不可欠なのがテロを続行できる数百万の人口で、人口過多なアジアにおいてその実現の可能性が高いという予見はズバリ当ててしまっている(中共の文化大革命カンボジアのポルポト政権・・・)

全体主義運動を結実させたのは、階級社会の崩壊で生まれた「大衆」だ
階級に属さない彼らには、利益を代表する政党はなく、階級に根ざした関係を築けない

・・・大衆は目に見える世界の現実を信ぜず、自分たちのコントロールの可能な経験を頼りとせず、自分の五感を信用していない。それ故に彼らには或る種の想像力が発達していて、いかにも宇宙的な意味と首尾一貫性を持つように見えるものならなんにでも動かされる。事実というものは大衆を説得する力を失ってしまったから、偽りの事実ですら彼らにはなんの印象も与えない。大衆を動かし得るのは、彼らを包み込んでくれると約束する、勝手にこしらえ上げた統一的体系の首尾一貫性だけである。あらゆる大衆プロパガンダにおいて繰り返しということがあれほど効果的な要素となっているのは、・・・論理的な簡潔性しか持たぬ体系に繰り返し時間的な不変性、首尾一貫性を与えてくれるからである・・・(p80)

むむむ、これは戦前の日本以上に、現代にあてはまるではないか
小泉首相によるワンフレーズ選挙、無党派層が主流となった衆院選の圧勝劇、会社に属せない労働者の増加、国民皆保険・皆年金の崩壊・・・社会のあちこちで足場が崩れていて、どこにも属せない「大衆」が溢れるように生まれている
アーレントはブルジョワが政治に弱肉強食の論理を持ち込んだことを指摘していて、これもそのまま「新自由主義」路線にあてはまっている。今ですら、財界は安価な労働力を獲得するために移民緩和に動いてさえいるのだ
天皇制のある日本で「第三帝国」型の全体主義が生まれるとは思えないけど、オウム的な吹き出し方は充分考えられそうだ

他にも現代の問題と重なる箇所は多い
組織、構成員のところを読むと、北朝鮮の可笑しさなんかも分かってくる
こっちの常識から考えると意味不明であっても、向こうとしては奇妙に首尾一貫しているのだ。外交一つにも複数の機関があって、どれが本命か外部の人間にはサッパリ分からず、最後は指導者そのものに働きかけなきゃならないとか、そのまま当てはまるところも多い
とにかく全編に渡って濃いので、書いていくときりがない・・・全体主義を考えることは、現代の人間自体を考えることになるかのようだ
強制収容所の存在意義イデオロギーの仕組みなども凄かったが、やはりラストのどうして人間は全体主義を作ってしまったかの命題に引かれる。いつから人は自分が無用だと思えてしまう社会を作ってしまったのだろうか
悲観的な話が多い本書だが、最後は「人はいつでも新しく始めることができる」という暖かいメッセージが締め
国家単位のことから個人の精神のことまで幅広く取り上げられて、現代のすべてを語っているかのような大著だった
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