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『ポル・ポト<革命>史』 山田寛

現在のカンボジア政府にも元ポル・ポト派の人間が…



なぜポル・ポト政権は歴史に残る大虐殺を起こしたのか。リアルタイムで取材し続けた記者がその悲劇の実像に迫る

ポル・ポト政権(「民主カンボジア」)は、1975年から1979年までカンボジアを統治し、政策的な大量虐殺で人口の33%を死に追いやったといわれる
本書ではポル・ポトをはじめとする指導者層の来歴に、第二次大戦後のカンボジアの情勢に触れ、苛烈な内戦を経て過激化していく過程を描いている
革命の指導者が労働者というより、ブルジョアに近いというのはよくある話だが、ポル・ポトの場合はそれどころか王族に近い身分! 姉が国王の夫人の一人となり、兄も王家に関わるという名家に生まれていた
最高幹部もほぼそれに列する家柄であり、貧農から這い上がったメンバーは登りつめずに粛清される側に回っている
そして、ポル・ポトたちはカンボジアの最高学府を卒業し、フランス留学、元教員とインテリの代表格だった。この肉体労働と無縁の身分が、農業の実態とかけ離れた政策につながったと考えられる


1.独裁者シアヌーク

驚かされたのは、ポル・ポト政権後に民主化のシンボルに祭り上げられていたシアヌーク国王が50年代まで独裁者として君臨していたこと
シアヌークは第二次大戦中に日本軍がフランスを追い出すと「独立宣言」を行い、日本の敗戦後には「フランス連合」内の独立を認められる
その際に、限定的な主権のもと、憲法制定、議会政治が許可され、王族の一人が民族独立、民主主義を掲げる「民主党」を結成した
しかし、1952年6月シアヌークが内閣を罷免して民主党を解散させ、全権力を握るクーデターを起こす。53年にフランスから完全独立を勝ち取ると、翼賛組織「人民社会主義共同体(サンクム)」を立ち上げて、議会の全議席を独占した
著者はこのシアヌーク翼賛体制が、民主主義の芽を摘み、ポル・ポト政権へのレールを敷いたとする

シアヌークはベトナム戦争が始まると、共産陣営について北ベトナムの共産軍の国内駐留・移動を認め、中国と友好不可侵条約を結び、アメリカと断交にまで及んだ
やがて共産軍の駐留が負担になってくると、アメリカに寝返り、国内の共産軍への爆撃を認めるようになる。この節操の無さに左右の政治勢力から信用を失い、CIAによるロン・ノル首相のクーデターを招くことになる
外遊中のシアヌークは文化大革命中の中国へ逃れ、ロン・ノル政権打倒のために統一戦線の傀儡となり、カンボジアはポル・ポト派(クメール・ルージュ)の手に落ちることとなる


2.数百万人の強制移住と新階級社会

ポル・ポト政権の地獄は、1975年1月のプノンペン陥落から始まった
数百万人の市民をすぐさま地方へ強制移住させ、病人や老人、子供にも容赦しなかった。移動中に死ぬ者も多く、軍人、役人はそれ以前に殺された
この政策には毛沢東主義の影響から都市生活を憎んだこともさることながら、ポル・ポト派が根拠地とした「解放区」に住んでいた農民を「基幹人民」とし、強制移住された人々を「新人民」と呼んで最下層とした。その間に「準完全市民」を置く三つの階層の階級社会では、「基幹人民」が「新人民」を使い捨ての奴隷として扱った
また、文革の紅衛兵にならって、「資本主義にまみれていない子供」を重用し、少年兵はおろか、こども看守による刑務所、こども医者による原始医療の導入は、さらに膨大な被害者を生むこととなった


3.諸外国のポル・ポト支援

そんなポル・ポト政権は統一したベトナムが介入するや、あっけなく崩壊するものの、タイ国境を中心にゲリラ勢力としてしぶとく生き残る
そうできたのが、大虐殺を知りつつも諸外国が後援したから。隣国のタイも、ポル・ポトを支援しベトナムへ懲罰の戦争まで起こした中国も、中国へ接近したアメリカベトナムの伸張を喜ばなかったからだ
そうした各国の相克が解けるのは80年代末で、ポル・ポトは裁かれることなく枕の上で死に、一部の幹部がかなり高齢になってから終身刑の判決を受けたにとどまるのだった
終章では、ポル・ポトたちが国民の「家族」関係を崩壊させようとした一方、自分の親戚に粛清が及ぼうとすると最大限介入する‟矛盾”を指摘。また幹部たちの葬式が「宗教」を根絶しようとしながら仏式だったことも、革命の敗北、無意味さの証とする


*23’4/13 加筆修正

関連記事 【DVD】『キリング・フィールド』

【DVD】『太陽に灼かれて』(1994)

最新作『遥かなる勝利』は近場の〇オにない。どうしたものか




1936年、スターリン体制下のソ連。マルーシャ(=インゲボルガ・ダグネイト)の実家に、かつての恋人ドミトリ(=オレグ・メンシコフ)が訪れた。マルーシャはすでに赤軍の英雄コトフ大佐(=ニキータ・ミハルコフ)と妻となり、ナージャ(=ナージャ・ミハルコフ)という娘もいた

先に『戦火のナージャ』観ていたので、その作風の違いに驚いた
舞台はロシアの田舎、保養所のような邸宅とその周辺に限られており、物語もマルーシャを巡るドミトリとコトフの三角関係とまるでオペラのようだ
時代がスターリン体制下で、1936年は大粛清たけなわ。それが終盤に絡んでくるのだが、映画の大半は、地方ののどかな時間が過ぎていく
音楽家を父にもつマルーシャの実家には、インテリ、芸術家たちが集い、歌を歌い、踊り、食事を楽しんで日常を終える。川辺でバカンス中に、民間防衛隊が対毒ガスの訓練を行ったり、コトフの名前がついた「レーニン少年団」があいさつに来たりと、当時のソ連社会の行事も興味深い
畑が軍の戦車に荒らされて農民が怒るとか、運送屋の届ける村がないなど、社会主義の農民への敵視政策もそれとなく描かれていく
そして、何よりもナージャが可愛い!

『戦火のナージャ』の印象から、コトフが一方的な犠牲者と思っていたが、まったく違った。ドミトリにはドミトリの事情があった
ドミトリは音楽家であるマルーシャの父の生徒だったが、彼女の父=師匠が死んだ後に国の命令で海外の仕事を命じられた。それにはコトフが関わっている
そして、父の後にドミトリと別れることになったマルーシャは自殺未遂を起こす。そこへコトフが現れて口説き落としていたというのが真相なのだ
ドミトリが外国に行っている間に時は流れ、いつしか秘密警察の一員になっていた。彼こそが、体制に帰る家、恋人すら奪われた犠牲者だったのである
そして、帰ってきた目的はコトフを反革命の罪で逮捕すること。ドミトリが動き出すと同時に、作中で作られていたスターリン記念日にちなむ気球が上がる場面が印象的。体制の被害者による復讐なのだ
かといって、復讐は何も生まない。最後に字幕でコトフは射殺され、マルーシャも収容所で死亡と告げられる。ナージャだけが収容所で生き残った触れられる
ドミトリ自身も、血まみれの風呂からクレムリンを眺めて一生を終えるのだ(冒頭に拳銃をいじる場面が、ここにつながるとは)
ん? ということは続編はこの時点で想定していなかったということか。主要人物は全員出てくるのだから


http://www.tufs.ac.jp/blog/ts/p/nukyoko/2011/07/post_33.html

このサイトさんによると、映画の原題「Утомлённые солнцем」太陽によって疲れさせられた人々が正しいとか
その代表格はドミトリで、彼が主人公なのだ


https://inagara.octsky.net/taiyouni-yakarete

DVDの字幕では要所に流れるタンゴ「疲れた太陽」の歌詞が、偽りの太陽が昇り始める」となっている。こちらのサイトさんでは、それは製作国でもあるフランスのタイトルから取っているとか。もちろん、この太陽とは「共産主義」のこと
外国語は英語はおろか、てんでダメなので、勉強になります


次作 【DVD】『戦火のナージャ』



『レーニン 革命ロシアの光と影』

セ・リーグのペナントは早々、終戦か
原巨人の強さというか、編成の的確さとスピード感で、他の追随を許さなかった。もうちょっと、手を打とうよ、他球団
まあ、阪神は開幕巨人戦三連敗で、CSがあっても感じになりましたが(苦笑)




慣れないテーマで読むのに時間がかかってしまった……
本書は2004年に開催された「レーニン没後80年記念・十一月シンポジウム」に参加した研究者の論考をまとめたもの
なぜ、読む気になったかというと『Workers & Resources: Soviet Republic』という、ソビエト版シムシティともいうべき都市建設SLGの動画を観ていて、やたらレーニン像が建てられていたから(笑)
積み読のなかに隠れていたのだが、こういう機会にならないと読むこともないと取り出してみたのだ
タイトルには「光と影」とあるが、最初のはしがきにあるようにほぼ「影」ばかりの内容である(爆
スターリンの大粛清が目立ちすぎて、レーニンの行動・政策は革命の混乱期であったからと免罪される傾があったのだが、ソ連崩壊から情報公開が進んだこともあって、その実態が明るみになったのだ
本書ではロシア革命以外にも、レーニンとオーストリア社会主義の論争とか、「アジア的生産様式」の論争とか、単なる歴史ファンにも読解しにくい内容もあったりするが、ソ連の始まりに何が起こっていたのか、その本質はなんなのかを明かしてくれる論考集なのである


1.労働者無き革命と農民敵視


第1章ではレーニンの農民政策について、第2章では意に添わぬ階級を対象にした収奪者の収奪について、取り上げられている
レーニンの起こした10月革命の特徴として労農同盟」の神話がある。社会主義革命を起こそうにも、ロシアの80%以上が農民で、革命の主体となるはずの労働者が少数のための方便なのだが、実際は労働者階級(プロレタリアート)の圧倒的優越
農民は労働者に指導される立場であり、労働者のいないロシアではレーニンの党派であるボリシェヴィキがその代表となる
支配の及ばない農村では、農民が勝手に行っていた土地の接収を「土地の再分配」として容認したが、体制が整うに及んで都市の食糧問題を解決するために、党の武装組織である赤衛隊が徴発を開始し、それによる農村の飢饉も放置した

レーニンにとって、農民は教会関係者やブルジョアと同様に、土地を所有する革命の敵であり、農場は国有で労働者が耕すべき場所であるべきだった。ソ連のソフホーズ(国有農場)は、工場の発想で運営され「穀物工場」と評された
しかし、農業は農業の専門家でなければ運営できるものではなく、穀物工場の非効率は現場の実体を知らないボリシェヴィキ指導者の無知、無能さを示すものだった
この農民蔑視の思想は後のスターリンの農業集団化や、他の共産諸国の農業政策の失敗へつながっていくこととなる


2.乗らない労働者とプロレタリアート独裁

第6章「マルクス主義思想史の中のレーニン」(太田仁樹)では、マルクス主義そのものが批判されている
マルクスとエンゲルスにとって、共産主義が実現した社会では、「諸個人の利害対立そのものが消滅している。そのため、利害を調整する国家機関は存在する必要もなく、「国家は死滅」する
ホッブスやロックの近代政治思想は、対立する個人がいかに共存するか、共存を可能にする制度設計を追求して、現代の民主主義や市民社会、法治主義が生まれたが、マルクスたちにこうした問題意識は皆無。個人の対立の消滅など、工業化が進むごとに複雑な利害対立が生まれる実体社会から離れたユートピアだった

いわば、近代社会からかけ離れた「無国家・無法共同体」思想といえた
マルクスたちは近代市民社会の担い手である中間層を口汚く罵り、既存の体制から外れたプロレタリアートこそが、革命の主体となると、自らをはじめとする左翼活動家の特権性を裏付けた
が、実際の労働者たちは体制外に逃れてプロレタリアートにはならず、資本主義を補強する国民として、近代社会の主役となっていった

というわけで、マルクスの構想は敗北したように思われたが、既存の国家を解体してプロレタリアートのみで権力を打ち立てる「プロレタリアート独裁」の構想は、法によるチェックを受けない「無国家・無法共同体」として、ロシア革命へ受け継がれていく
現実の市民社会へ対応しようと、ドイツやオーストリアではマルクス主義政党が結成され、既存の社会を内部からの改良を目指すカール・カウツキーに、プロレタリアート独裁の幻想を一蹴したエドアルト・ベルンシュタインが登場し、武力革命路線は東欧出身のローザ・ルクセンブルクらに限られるようになった


3.ニヒリズムの帝国

さて、そこでレーニンの位置づけとなるが、現実の労働者が革命の担い手であるプロレタリアートになりえないことで、ベルンシュタインと一致していた。違いはレーニンが現場の労働者とプロレタリアートを分離したことで、自ら左翼活動家を「革命プロレタリアート」として労働者を指導し、革命意識を注入すればいいとした
いわば、革命を起こす労働者がいないなら、強制的に作ればいいじゃないという話である。ソ連労働者自身に革命を起こす意識はもたないと見切って建設された、ニヒリズムの帝国なのだ
国民国家の精神と制度が整えられた西欧では、そんなご無体は通らないが、多民族の帝国だったロシアでは近代の国民統合に失敗し、帝政崩壊後の無政府状態に革命党による情報操作や動員がしやすい状況だった
無政府状態はマルクス主義の「無国家・無法共同体」とはまり、ボリシェヴィキは法治主義の欠落した権力を振るい続けることとなる
直線的に共産主義のユートピアに走る国家は存在しなくなったが、昔ながらの革命党が居座る国には、法治主義を備えない国家体制が残っている。今なお、マルクス・レーニン主義の残滓が影響を残しているのである


*23’4/12 加筆修正

【PS配信】『スターリンの葬送狂騒曲』(2017)

イギリスとフランスの合作映画で、言語はもろの英語。ロシア訛りが足りない?




1953年のソ連・モスクワ。モスクワ・ラジオの演奏を気に入ったスターリン(=エイドリアン・マクラフリン)は、スタジオに録音テープを寄越すように命じるが、ピアニストのマリア・ユーディナ(=オルガ・キュリレンコ)はそこに罵倒する手紙を忍ばせた。手紙を見たスターリンは興奮し、脳卒中を起こして昏倒してしまう。放心する最高幹部たちを尻目に、秘密警察を指揮するベリヤ(=サイモン・ラッセル・ビール)と中央委員のフルシチョフ(=スティーヴ・ブシェミ)による、ポスト・スターリンの主導権争いが始まった!

ソ連版『お葬式』!?
舞台はスターリン体制下のソ連。疑わしき人物を次々と粛清してきた独裁者が倒れたことで、その提灯持ちだった部下たちは大混乱に陥る
医者を呼ぼうにも、まともな医者たちは毒殺の疑いをかけられて監獄のなか。無理矢理、引退した医者を徴発し、診察させる始末だ
そもそも冒頭にスターリンの命令で、生放送だったラジオのオーケストラを再演する珍事が起こっており、批判が許されない無謬な指導者を仰ぐ体制をこれでもかと笑いの種にしている
NKVDが絡むとだいたい関係者が拉致されて、「スターリン万歳」の声とともに銃声が響くというかなりブラックな演出がなされており、笑いに昇華しきれているかは微妙なところ
管理人は気に入ったが、かなり人を選ぶ映画ではあるだろう

スターリンのもとで絶大な権力を振るったベリヤは、自分が一番恨まれる存在なのを理解していた。いち早くスターリンに提出した粛清リストを確保して、都合のいいように改訂してしまう
書記長代理の立場から中央委員会の議長となったマレンコフ(=ジェフリー・タンバー)に取り入って、ナンバー2の立場を維持する
フルシチョフもそれに対抗した外務大臣で粛清リストに入っていたモロトフ(=マイケル・ペイリン)を取り込もうとするが、ベリヤは先手を打って粛清されたはずのモロトフ夫人を釈放し、モロトフ自身をリストから外した
こうした政治的な鍔ぜり合いが本作の見所。フルシチョフは鉄道などの運輸関連に葬儀委員長を任されて閑職に追いやられてしまう
しかし、葬儀の最中に起死回生の展開が!
赤軍総司令官ジューコフは、NKVDが警備を独占したのに憤慨し、フルシチョフと影の盟約を結ぶのだ
このジューコフのキャラクターが最高で、スターリンの息子であることを振りかざして周囲を困らせるワシーリーを鳩尾(みぞおち)への一撃で撃沈。史実よりラテン系で若々しく、分かりやすく力の化身といった豪傑なのである
権力を確立したフルシチョフは、スターリンの娘スヴェトラーナに対して手のひらを返した態度をとる。一寸先は闇の政治の世界、独裁権力の怖さを示すラストシーンなのだった

『ハンナ・アーレント 「戦争の世紀」を生きた政治哲学者』 矢野久美子

絶好の入門書


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アーレントはいかなる境遇を潜り抜けて、「公共性」を見出したのか。その人生と思考の過程を日本人の研究者が追う
著者は富野監督の対談コーナー「教えてください。富野です」にも登場したアーレントの研究者で、いくつもの訳書を手がけている
本書はアーレントの伝記ともいえる内容だが、その人生と時代とリンクして著作を分析することで、その時々に彼女が論じたかった真意に迫るするものとなっている
なにせアーレントの原著は難解である。本書ではそのエッセンスともいえる要素を、分かりやすく抜き出して解説してくれるので、時間のない社会人には非常にありがたい

ハンナ・アーレントは、1906年にドイツのケーニヒスベルク(現・カリーニングラード)のユダヤ人家庭に生まれた
18世紀のケーニヒスベルクは、ベルリンに次ぐドイツ・ユダヤ啓蒙主義の中心地と言われ、ユダヤ人のゲットーからの解放ドイツ市民社会への融合が唱えられていた。ハンナの祖父マックスは、ユダヤ民族主義にこだわるシオニストと一線を画す自由主義者だった
ベルリン大学の聴講生を経て、1924年にマールブルグ大学に入学する。同大学には、「思考の国の隠れた王」と呼ばれたマルティン・ハイデガーがいて若い学生のグループができていた。ハンナは珍しい女学生として参加し、ハイデガーとは道ならぬ恋路に踏み込む
ハイデガーとの関係はその妻エルフリーデの耳にも入り、1926年にはハイデルブルグ大学へと転学する。そこでハンナを指導したのが、ハイデガーの盟友であるカール・ヤスパース。ヤスパースは患者を社会に合わせて治療する既存の精神医学の方法論に疑問を持ち、心理学の手法を哲学に持ち込んでいた
この大学で生まれた博士論文が『アウグスティヌスにおける愛の概念』アウグスティヌスは4世紀、ローマ帝国末期のキリスト教哲学者で、ハンナはその著作をとおして「隣人愛」、隣人の存在意義への問いかけを行う
人間を社会的なものとして考えると、同じ神に創られた「被造物」というだけでは不十分で、それぞれ孤立した存在となってしまう
そこでアダムを始祖とする「出生」によって成立する「人類」への帰属をもう一つの起源として掲げる。罪深き「人類」として相互に依存し、平等に「運命を共有」して、それは死者たちの「歴史」に由来し、死者をも含む「社会」でもある
「処女作には、その作家のすべてがある」などというが、たとえ「他者」であっても、同じ「人類」である以上、歴史的に相互依存性があるという信念が処女論文に表れているのだ

ドイツで凄いメンバーに囲まれて育ったアーレントは、1933年にナチス政権の成立からフランスへ亡命する。そこでは、同じ亡命者の劇作家ブレヒト批評家のヴォルター・ベンヤミンと出会い、ロシア人哲学者アレクサンドル・コージェヴの講義にも顔を出していた
学業だけでなく、ユダヤ人青少年のパレスティナ移住を助ける運動にも従事し、結果的に数千人のユダヤ人を救ったとされる
1939年に第二次大戦が始まると、パリにいた亡命者たちは意外な苦境に立たされる。フランス当局によって、「ドイツ野郎」として強制収容所に入れられたのだ。アーレントたち女性はスペイン国境近くのギュルス収容所に収容された
国民国家は国籍のない人間に人権を保障してくれない。こうした苛酷な経験が「パーリア(賎民)」としてのユダヤ人論、『全体主義の起源』『人間の条件』といった著作に生かされていく
アイヒマン裁判を巡る論争では、「独裁体制のもとでの個人の責任」という難しい問題に対して信念を貫き、多くのユダヤ人の友人との絶縁を厭わなかった。体制に「服従」したか、ではなく「支持」したかが大事であり、体制そのものが犯罪なら自分の無力さを認めて不参加・非協力という生き方もあるとした
本書は「考えること」が特定の層のものではなく人間に必要な営みであり、そうして考え言葉を交わし行動することが世界を存続させるという彼女の哲学が、いかなる経験からで醸成されたかを教えてくれる


関連記事 『ガンダム世代への提言 富野由悠希対談集Ⅰ』

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『ふたりの証拠』 アゴタ・クリストフ

辛く悲しい物語


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「ぼくらのうちの一人」クラウスは鉄条網を越え、「もう一人」リュカは祖母の家に残った。戦争が終わり一党独裁の体制下で、リュカは野菜と家畜の面倒を見つつ、夜は居酒屋でハーモニカを吹いて生計を立てていた。ある日、不義の子を死なせようとした少女ヤスミーヌと出会い、二人を引き取る。リュカはいつかクラウスに伝えるために、日記を書き続ける

『悪童日記』の続編である
祖母の家に残った双子の片割れ、リュカの視点で、戦後の生活が語られる
双子の祖国は共産主義陣営に組み込まれ、全体主義的体制に支配された。戦争中より生活は安定するものの、当局によって本屋や図書館から読みたい本が消えて行く
父と不義の子を作ったヤスミーヌとその子マティアス、恋人を処刑された司書クララ、アルコール中毒の本屋ヴィクトール、同性愛者の党書記ペテール……リュカは直接実害を被らないものの、作品には社会からはじき出されり、精神生活を抑圧されて病んだ人々が次々に登場する
戦争によって生活と歴史が破壊され、全体主義によって記憶を奪われ意味が押し付けられる社会で、人間が生きたという証明は何によってなされるのか
社会は人を統計としか記憶せず、人が人によって記憶される他ない。リュカは自分の生きたという証のために書き続ける

前作では「ぼくら」で括られた双子は、それぞれリュカクラウスという名前を与えられている
他の登場人物も名前を持っていて、普通の小説に近くなったが、端的に書きなぐられた少年の日記という文体は変わらない。それによって青年になったリュカは、少年時代と同じ澄み切った存在に見せいてて、実はそれが巧妙なトリックとなっている
日記は読まれることを前提に書き残すもので、そこには著者のバイアスが必ずかかる。終盤に他の登場人物がリュカを語るとき、屈託のないような彼の精神がいかに脅かされていたかが明らかになるのだ
もう、なまじのミステリーなどぶっ飛ぶような衝撃である
戦争が終わって生活は安定したが、そこに住む人々の生活は荒廃している
その象徴として、リュカの家の屋根裏には、前作で死んだ母と妹の骸骨が飾られている。リュカは「ぼくらの片割れ」と別れたあと、その欠落を埋めようとするように、ヤスミーヌが生んだ障害児マティアスを受け入れて、自らの子として育てようとする
しかし、その新しい家族を作ろうとする努力は、複雑な人間関係のなか、最悪の形で崩壊する。戦争とその後の統制社会で、人々の傷は癒されることなく沈殿していくのだ
はたしてリュカはどこへ行った?


次巻 『第三の嘘』
前巻 『悪童日記』

【DVD】『未来世紀ブラジル』(1985)

明るいブラックジョーク




20世紀のどこかの国では、完全な情報統制による管理社会が実現していた。その中心である情報省は、手配中のタトル(=ロバート・デ・ニーロ)をバトルの綴りと間違えたことで、無実のバトル氏(=ブライアン・ミラー)を拘留してしまう。情報省の若手官僚サム・ラウリー(=ジョナサン・プライス)は、バトル夫人から尋問手数料を徴収するためにスラム街に訪れたが、真上の部屋にいたジル(=キム・グライスト)に一目惚れ。しかし、ジルにはバトル氏の誤認逮捕を見たために、当局の容疑がかかっていた

何ブラジルか忘れていて、ずっと借りそびれていた
近未来の管理社会を描くSF物ながら、製作された年にちなんでか(放映は1985年)、ジョージ・オーウェルの小説『1984』をヒントに現代的な要素を吹き込んだ、1984年版『1984』がコンセプトだそうだ
監督の趣味なのか、情報省の官僚たちは昔風のスーツを着込み、町を歩く人々も80年代より一昔前の装いでいる。それと風呂で見られるテレビ、ダクトによる手紙のやり取り、家事の自動化など、古典的SF小説が描いたベタな未来技術との組み合わせが、独特の世界観を作りあげている
こうした小説的未来だからこそ、古びない寓話として存在感を保っている
映画放映から30年経った今、上述の未来技術も違う形(タブレット、電子メール、掃除ロボット)で実現していて、それはそれで未来でも過去でもない並行世界を見たような感覚になった

ジョージ・オーウェルの小説との違いは、「偉大な兄弟」なしに管理社会が成立しているところだろうか
情報省の長官はその名もヘルプマン(=ピーター・ヴォーン)。彼はカリスマ的独裁者でもなく、社会の一員としてその要求を果たすべく行動する官吏にすぎない。本作の世界にはアイヒマンしかいないのだ
管理社会をつくり上げるのは、利便性を追求する市民社会にある。いつまでも若くいたいから整形手術が発達し、完全な安心が欲しいから警察権力が拡大する
整形を繰り返す主人公の母はそうした市民の象徴ともいえ、ヒロインの体を乗っ取って若者と戯れる場面など、この上ない悪夢といえよう
もっとも文明の利器に浸れる市民がいる一方で、その割を食ってダクトに囲まれた生活を強いられる下層民もいる。しかし階級がそのまま自由を保障するわけでもなく、主人公のように特権階級でも社会的都合で抹殺されることもある
社会のイデオロギーに逆らえば、誰でも地獄に落とされるのが全体主義社会なのだ

監督が役人に恨みでもあるのか、これでもかと官僚制の弊害が描かれる
作品の情報省を始めとする役人は、管轄以外のことにはまったく関わらず、銃撃戦をしている最中ですら自分の職務に専念している。ややこしいことになると、他の部署にたらいまわしにしたり、必要書類の不備を口実に追い払ってしまう
印象的になのが、情報剥奪局に移ったばかりの主人公が隣室の同僚と机を奪い合う場面。限られたリソースで与えられた仕事をこなすのが彼らにとって全てで、保身のために妥協しない
しかし、その管理社会を司る彼らも、それを強いられるように管理されているにすぎない
ここまで官僚の陰湿さを描いていくと、退屈な社会派に陥りそうなものだが、モンティパイソンのギャグセンスで官僚社会の馬鹿らしさを朗らかに見せてくれる

情報省での自分に疑いを感じなかった主人公も、ジルをきっかけにその弊害を実感するようになり、いつしか暴発的な自由に惹かれて行く
彼にとって憧れの存在にタトルは、ただの暖房設備のエンジニアだが、当局の行き過ぎた規制からその修理を脱法行為と受け取られ、テロリストとして認識されてしまう
いわば法律の厳格さが犯罪者を生み、過剰な管理社会がテロリストを作る。恐怖政治(テロ)がテロリストを生むのだ
『1984』のモデルであるソ連が健在な時代に、民主主義社会においても情報管理からの全体主義がありうると具体的に示したことは画期的で、対テロ戦争のアメリカなどで現実化した国家による個人情報の管理や監視体制を不幸にも予見してしまった作品といえよう

【考察】全体主義の黎明期 『Gのレコンギスタ』のまとめ

おそらく、最後のテレビ作品となるのだろう


1.おじいちゃんのジェットコースター

本作をひとことで言い表すならば、コレなのだ
キャピタル・テリトリィ、アメリア、トワサンガ、そしてビーナス・グロゥブと地球圏を越えた世界観は、とても2クールを想定したものとは思えない
監督の脚本にどれだけ他のスタッフが関わったかは分からないが、最初に作った設定をほとんど削らず投入したのはなかろうか
余りの展開の早さゆえに先を読む余裕もなく、次から次に現れる世界や人々に目を奪われ続けた。これほど次回の内容を楽しみした作品もない

その反面、本来なら作品を代表する名シーンが、余韻を感じる間もなく終わってしまう嫌いもあった。最初に感じたのは、デレンセン大尉の死に様だ。あれだけ存在感のあるキャラクターが殺されて、尾を引かないのだ。「戦死システム」という言葉が頭に浮かんだ
そうしたドラマの飛躍も終盤のカタルシスで補うに余りあると信じていたが、最終回までジェットコースターだった
歴代の富野作品は、様々な事情で中盤が混乱しても、終盤での神業的な畳みかけで名作として成立していた。それに比較すると、人々の結末を義務的に並べたに終わった最終回は非常にもったいない


2.ベタな設定のてんこ盛り

富野監督は絶えず、ありきたりの設定を避けてきた。王道の物語を作るとしたターンエーすら、普通の物語がない時代だからこそ普通に作るのが新しいという認識でスタートした
しかし、Gレコはどうだろう
「学校の同級生と敵味方に別れて戦う」「主人公は貴人の息子であり、実の親もやはり貴人である」「恋した人が実の姉だった」「主人公機体はスーパーな性能で敵を圧倒し続ける、どころか本人もスペシャルな天才である」
いわゆるアニメでありがちな設定で溢れているではないか
しかも、あまり熱心でなかった自作品のパロディも積極的に盛り込んでいる。これはどうしたことか

おそらく、後進へのお手本という意識が強いのだろう。「ベタな設定でも、ちゃんとドラマを積み上げれば感動できる」「パロディというのは、こうやるのよ」と示したかったに違いない
そしてその結果、シリアスなテーマを内包しつつも、最後までエンターテイメント全開の作品となった。これほど笑わせてもらったアニメ作品は他にない!
しかし、実際に後進のお手本になるかというと、上記のジェットコースターが気にかかる。ただでさえ、情報量をスピードで押し切ろうとする富野信者が多いのだから……


3.帝国主義たけなわ

Gレコは新興国のアメリアが、資源の供給を握るキャピタル・テリトリィに挑戦するところから始まる
キャピタルは南米とおぼしき“イザベル大陸”にある。イザベルの名は、コロンブスの航海を支援したカスティーリャの女王を連想させ、キャピタルとフォトン・バッテリーを供給するトワサンガは、植民地と宗主国の関係
現実の歴史に喩えるなら、アメリカがスペイン・ポルトガルの影響を排除しようとするモンロー主義の時代にあてはまり、植民地の独立戦争と見ることもできる

しかしアメリアの行動は、単なる独立戦争にはとどまらない。キャピタル・タワーを掌握することで、地球圏の覇権を手にしようとする
ビーナス・グロゥブからの輸送船フルムーンシップが争奪されるのは、その能力があればフォトン・バッテリーの供給を握れるからで、アメリア、クンパ大佐の指導で自立の動きを始めるキャピタル・アーミーと独占を維持したいトワサンガとの三つ巴の戦いは、文字通り帝国主義同士のぶつかり合い
史実でいえば第一次世界大戦軍隊の大規模化は階級の平等化を促進し、貴族の牙城であった将校にもルイン・リーのごとく階級上昇に利用する者が現れる
彼の行いは、昭和の青年将校そのままだ


4.全体主義の萌芽

地球から離れたビーナス・グロゥブは、最先端の技術を維持して、フォトン・バッテリーを握って超然とした地位を保っている。ベルリたちにとっては自分たちの社会の未来といえ、進歩する技術の延長にある
アイーダラ・グー総裁が示したのは、進みすぎた技術ゆえに衰弱する身体であり、ジット団はそれを嫌って、地球こそ人類の理想郷と夢見て旅立つ。その意味で、レコンギスタとは身体性を回復する運動ともいえる

しかしこの身体性を回復し、理想郷を取り戻す運動は、歴史的には全体主義とも結びつく
トワサンガの強硬派やジット団にとって、地球を勝手にいじくり回す地球人は、理想郷を壊す排除すべき蛮族である。バーチャルなユートピアは、不健全な存在を排除しなければ成就しない
唐突に思えたフラミニアとマスクの握手は、観念的なユートピア思想を持つインテリとこの世を憎悪する虐げられた下流階級の結合であり、第一次大戦後の全体主義の台頭を思い起こさせる
Gレコに描かれた歴史風景は、まさに全体主義の起源なのだ


5.ノブレス・オブ・リージェ

そうした戦争や全体主義の動きを防ぐものとして提示されるのが、ノブレス・オブ・リージェの精神
戦争にしろ、全体主義にしろ、身に過ぎた文明の利器を持った人間が欲望を発散して、悲劇を起こしてしまう
責任ある立場にいる者は、周囲の人間の欲望に迎合するのではなく、高所に立って自らの共同体を導き、それを支える環境に意を払わねばならない。優れた技術がもたらす結果に、知見と責任を持たねばならないのだ
アイーダは政治家としてエリートの責務を果たしたが、この精神はトップにだけ求められるものではない
超技術を預かったベルリがなるべく犠牲を少なくしようと奔走したように、一人一人の人間としての倫理も試されている。技術に振り回されず、全体化するシステムに動員されないココロが必要なのだ


とにかく楽しいアニメだった
次から次と監督好みのネエちゃんが出てきて色気を振りまき、「彼女のいない奴のことも考えろ」と言いつつ、男女のキャッキャウフフも描かれる。まさに生の喜び、これにありと見せつける
しかし、こうして愛し合う人間たちが、いざ戦争に巻き込まれると、違う喜びを目覚めるように暴れ出す。健全で元気な人間が、無定見から戦争で傷つけあい、閃光の中で消えていく
生の素晴らしさを伝えていたからこそ、それを奪う戦争の酷さが分かるのだ。陽性のドラマが展開されても、監督のロボットものに対する姿勢にまったくブレはない

全体主義に関しては、いわゆるナチズムやスターリニズムのような体制は登場せず、その萌芽を示すに終わった
リング・オブ・ガンダムの際に、確かテレビシリーズ劇場映画でという話があったと思う。実現するかはともかくとして、構想の中では全体主義によって崩壊した世界が、続編として想定されているのではないだろうか
ハリウッドで企画されているというリメイク作品含めて、期待して待ちたい


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(2014/12/25)
石井マーク、嶋村侑 他

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『総力戦体制』 山之内靖

「空気」は日本だけじゃない?

総力戦体制 (ちくま学芸文庫)総力戦体制 (ちくま学芸文庫)
(2015/01/07)
山之内 靖

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戦後の豊かな社会は、「敗戦」によってもたらされたものではない! 現代の制度の多くが戦時の動員体制で形成されたという事実から、世界全体を見直す「総力戦体制論」
日本の福祉制度が戦時に整えられたことは、浸透しつつあるが、本書はそれを何歩も進めていく
戦時に福祉制度が充実するのは、実は普遍的な現象で、二つの世界大戦を経て欧米でも起こっていた。それのみにとどまらず、国家総動員体制が国民国家の枠組みを不可避的に変貌させていった
個人や家族の領域さえ、巨大なシステムに組み込まれた点で、ナチス、スターリン体制だけでなく、日本の軍国主義、アメリカのニューディール、フランスのドゴール体制も「ある種の全体主義と捉えるのだ
著者は1980年代に早くも、戦前と戦後の断絶に異を唱え、総力戦で完成したシステム社会がどこに向かうのか追及してきた。本書はそうした論考を「総力戦体制」というテーマでひとまとめにしたもので、章ごとの内容が重なる部分があるものの、大河内一男を代表とする戦時下の社会政策論、パーソンズを引用するシステム社会の定義、戦後の市民社会派が忘却したものとマックス・ヴェーバー誤読の歴史、ジョン・ダワー『敗北をだきしめて』の戦後論、リスク社会とシステムの緊張関係、<超人>と<カリスマ>の再評価、とテーマは日本社会を越えて多岐に渡る
ヘーゲル、マルクス、マックス・ヴェーバー、パーソンズと素人には頭が破裂しそうな内容ではあるもの、富野監督の言う現代の「全体主義」を考える上で、大きなヒントを与えてくれる大著である。つまり、こういうことだったのか!

時期的にばらばらの論考をまとめたにも関わらず、一人、主役のように浮かんでくる人物がいる。戦時下に「生産力理論」を提唱した大河内一男である
1930年代にマルクス主義は弾圧を受けて資本主義論争は下火となったが、大河内ら講座派は、総力戦に備える国民総動員体制を構築するために活躍の場を与えられた
生産力理論」は、限られた人的資源で最大限の生産力を得るために社会の合理化を目指すもので、大河内は軍国主義の非合理性を排除すべく奔走する。彼にとって戦争という非常時は、改革のチャンスでもあった
労働者を効率的に働かせるために、労働時間の制限、余暇の確保、「銃後」の安定のための保健体育体制、自発的意欲を高めるための「産業報国会」に働きかけた
産業報国会」は、企業ごと職場ごとに編成された組織であり、戦後の労働組合の原型となるものである
戦後、戦争協力への反動から、市民社会派に逃れるものが多く大河内もその一員だったが、彼は「戦時下の遺産を戦後の発展に生かすべき」ともし、戦後に実現した八時間労働制は戦時下から模索されたものとしている
こうした動きは日本の後進性、特殊性に由来するわけでもない。軍国主義と対置するはずのアメリカ・ニューディール民主主義も似たような現象を起こしていた
政府が巨大な官僚組織に変貌し、各分野で専門家中心の中央集権ヒエラルキーが生まれ、労働組合は体制に取り込まれた
ナチズムほどではないにせよ、国民すべてを戦争に動員するための「強制均質化が働いて、人種差別の撤廃も叫ばれた。そして、大戦から冷戦に膨れ上がった軍産複合体はベトナム戦争へと向かう
世界大戦を通じて、世界各国で機能主義的なシステム社会が生まれ、より強烈な「強制均質化」が働いた日本が経済大国にのしあがるのである

さて、戦時の総動員体制がなぜ、今「全体主義」につながるのか
上手くいえる自信はまったくないが、頑張ってみよう。本書ではシステム社会の特徴として、パーソンズの権力概念を紹介している
パーソンズにおいて「権力は、強者が弱者に行使するものではなくて、共同体に所属する全員に課せられる“機能”で、秩序が保たれるために働く。個人そのものには由来せず、野球チームなら「監督」という“立場”が権力の根拠となり、辞めればただの人となる
こうした、すべての成員がなんらかの社会的機能を果たすシステム社会では、市民社会と国家が一体化して、「目に見えない権力」によって相互監視される。国家はシステムの頂点ではなく一部と認識され、国家が市民社会を侵食したというより、国家が市民社会化したとも称される
そして、このシステムは絶え間なく合理性を目指すベクトルをもち、社会工学的合理性の観点から「予知不可能」「不規則」「不確か」を排除しようとする。この清潔で整頓された空間への希求こそ、「ホロコースト」への道であり、リアクションとして「テロリズム」を生むのだ
厄介なのは、一般人はおろか社会学者すらシステムの一環に囚われているから、客観的にシステムを点検できる人間がいないことである。もはや何が正常か、異常か、内部からは分からない
著者はシステムに回収されない「新しい社会運動」(国に補償を求める運動はダメ!)に期待するが、果たして……
サブカルチャーが描いてきた管理社会の恐怖とは、言葉にするとこういうことだったのだ

著者の戦後学界の主流、社会民主派に対する批判は、いわゆる戦後民主主義やそれに準拠するマスコミ、市民団体に通用する
彼らはすでに国家と市民社会が一体化したシステム社会にも関わらず、ヘーゲル時代の国家観に後退することで対応している
政治参加する「市民」は、社会の外壁から思考や判断を下せる理性的な人間として存在できるだと思っている。実際の庶民は社会政策と自己責任の間に右往左往しているわけで、他人事ぽい言説はこうしたリアリティがないから言えるのだ
戦前の丸山眞男は、「ファシズムは市民社会の本来的傾向の究極的にまで発展したもの」と喝破したが、戦後は口を閉ざしてしまった
近代の悲劇に直面しながら、戦後には近代化を楽観視し崇高な目標に置いてしまったことが、今の日本の現状を招いている。その列には新自由主義も入るわけで、システム社会の限界を把握しないと、違う形で悲劇が引き起こされることだろう


敗北を抱きしめて〈上〉―第二次大戦後の日本人敗北を抱きしめて〈上〉―第二次大戦後の日本人
(2001/03/21)
ジョン ダワー

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『第二次世界大戦 ヒトラーの戦い』 第1巻 児島襄

第1巻が手に入らないと読めないタチでして



戦史作家・児島襄によるヒトラーとナチスドイツを題材にした大長編シリーズ

いつか読みたいと思っていた本作がようやく手に入った
小説調の読みやすい文体に、普通の歴史本には取り上げられない細かいエピソードもふんだんに持ち込まれて、期待どおりの内容だ
第1巻の内容は、ヒトラーの“入党”からミュンヘン一揆(ビアホール蜂起)、占拠による政権奪取、レーム一派の粛清、再軍備ラインラント進駐までで、ナチスの躍進と内部抗争、ワイマール共和国の政治情勢、周辺国の反応が詳細に語られる。ゲーリングがミュンヘン一揆でユダヤ人に助けられたとか、宣伝相ゲッペルスがレーム派の社会主義者だったとか、驚きの小話も散りばめられている
なんといっても、ヒトラー周囲の人間関係が生々しく取り上げられていて、エヴァ・ブラウンの度重なる自殺未遂に振り回されるヒトラーなど、妙に人間味のあるエピソードが目を引く
本書はもちろんナチスやヒトラーに同調するものではなく、なんでこんな“ただの人間たち”がジェノサイドできたか、を問うている


1.オーストリアを巡る独伊対立

ムッソリーニのイタリアは、後の「ローマ・ベルリン枢軸」からヒトラーと蜜月関係と思われがちだが、当初はそうでもない
個人的にはナチスをファシスト党のパクリと見なしていたし、オーストリアの政情を巡っては対立関係にあった
1932年にオーストリアにファシズムの弟分ともいえるキリスト教社会党のエンゲルベルト・ドルフスが独裁体制を築き、ムッソリーニはドルフスと家族同士につきあう仲だった
それが1934年7月に、ドイツとの合邦を目的とするオーストリア・ナチスの襲撃を受けてドルフスは暗殺される(ハプスブルグ朝からの風習で近衛兵に銃を持たせてなかったという!)
激怒したムッソリーニは、ドイツ国境の部隊に動員をかけるが、幸いオーストリア・ナチスによるクーデターは失敗に終わり、直接の衝突は避けられた

しかし自分の勢力圏と見なすオーストリアへのドイツの干渉に苛立つムッソリーニは、イギリス、フランスと手を組んでドイツの再軍備に反対する「ストレーザ戦線」を組んだのだ
イタリアとナチスドイツが接近するのは、イギリスが再軍備を容認したことがきっかけで、国際連盟の無力さを知ったムッソリーニはエチオピア問題を武力で解決し、ナチスの独走を利用するようになっていく


2.日独伊防共協定の実態

本巻は1937年の日独伊防共協定で幕を閉じる
日独伊三国同盟への道が開かれたものに思えるが、当時としてはそれほどテンションの高い協定ではなかったようだ
1936年に日本とドイツで結ばれた時には、日本側はソ連に対する防衛協定にしたかったが、ドイツ側はまだ軍備が整っていないとして拒否し、対象を「コミンテルン」という曖昧なものとなった。両者ともにメリットの薄い協定だったようだ

むしろ、イタリアとの防共協定で、エチオピア併合と満州国の相互承認したことのほうが大きい
また、この1936年では、イギリス海軍の優越を認めたヒトラーの低姿勢が功を奏して、イギリスはドイツの再軍備を認めるようになり、ナチスをして共産主義の浸透を抑える役割を期待していた
そして、ベルリン・オリンピックの成功により、ナチス・ドイツの国際的な評価がグッと高まる。このような状況で結ばれた日独伊防共協定は、必ずしも英仏米といった対立するものと考えられていなかった
結末から考えて解釈しがちだが、それに到るには様々な紆余曲折があったのだ


*23’4/15 加筆修正

次巻 『第二次世界大戦 ヒトラーの戦い』 第2巻



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