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『第二次世界大戦 ヒトラーの戦い』 第3巻 児島襄

ついに西方電撃戦




第3巻は“ファニーウォー”中の対英和平工作に、ノルウェー侵攻の“ヴェーゼル演習”を経て、マンシュタイン・プランによる西部電撃戦バトルオブブリテン、対ソ戦の前段となるユーゴ、ギリシャの作戦、日独伊三国同盟まで
国防軍は西部戦線に対して悲観的で、戦線が停滞すれば弾薬まで不足するとしていた。そこで反ヒトラー派の軍人たちは、再びクーデター計画を蒸し返す
英仏への攻勢を合図にした計画は皮肉にも、“ファニーウォー”が続きすぎたことから頓挫してしまう
ヒトラー自身も英仏の宣戦、特にイギリスの激しい抵抗は予想外だった。ファニーウォーの原因はドイツ側が和平の可能性を捨てていなかったためでもあった
戦前には対英融和のために海軍の拡大をしておらず、イギリス本土の上陸作戦を立案したものの、将来の対ソ戦を重視して本腰ではなかった
フランス制圧後もイギリスへの和平の期待は収まらず、副総裁ルドルフ・ヘスが単独渡英する事件を引き起こすのだった
戦艦グラフ・シュペーの最期ヴェーゼル演習におけるデンマークとノルウェーの対照的な対応、戦争で影響力が低下したムッソリーニの右往左往など、相変わらずマニアックな人間味のあるエピソードを取り上げられて、もう満腹です


1.幻のソ連侵攻作戦


西部戦線のフランスについての記述は、アンドレ・モーロワ『フランス、敗れたり』からの引用が多いようで、ポール・レノーエアドール・ダラディエの、愛人を交えた政争が面白くおかしく描かれている
驚くべきは、戦線の膠着を打開すべく、フランスによるソ連侵攻作戦が計画されていたことだ
目の前のドイツよりは、ソ連のほうが倒しやすいと、フランスの委任統治領のシリアから植民地軍を北上させ、ソ連の資源が集中するカフカスを突くという壮大な作戦である
さすがに却下されたものの、冬戦争のフィンランド支援を巡って政争が起き、ダラディエ政権は倒壊し、ポール・レノーが首班となる
しかし、レノー政権ダラディエが入閣しないと政権が持たない脆弱性を抱えており、挙国一致には程遠い体制だった
パリ占領後、レノーは徹底抗戦を唱えたが、軍部が秩序だった抵抗はできないとして反対し、副首相だったペタン元帥(84歳!)に政権が渡って、ヴィシー政権が成立する


2.独ソ関係の悪化と松岡洋右

ヒトラーはフランス制圧後、イタリアへの援軍にロンメル率いるアフリカ軍団を送りつつ、対ソ戦への準備を始めた
ソ連側も徐々に対独戦を想定し始めていたようで、スターリンの「積極攻勢発言」もあって1942年を目標に装備の刷新を目指していたらしい
ドイツ軍関係者にミグ戦闘機を見せたこともあり、赤軍の強大化を感じたヒトラーはより対ソ戦への決意を強めたようだ

そんな情勢のときに、のこのこ現れたのが、“東方の使者”日本外相・松岡洋右
松岡は日中戦争の打開のために援蒋ルートを遮断しようと、仏領インドシナへの進駐を希望していた。また、日独伊三国同盟をソ連を交えた四国同盟に発展させ、アメリカの介入を防ぐ構想を持っていた
ヒトラーの要求はずばり対英戦で、シンガポール攻撃を依頼した。松岡は南進論者であったものの、イギリスへの宣戦は自動的に対米戦を招くとして、意味不明の問答で回避する

アメリカの宣戦が第二次大戦の転機となったため、真珠湾攻撃時のドイツの対米宣戦布告が不可解とされるが、ドイツ側からすると「民主主義の武器庫」としてイギリスを支援した時点で敵国同然であり、将来の参戦は不可避と判断していたようだ
日本の参戦でイギリスとアメリカの国力が削がれることを期待されていて、対ソ戦中に真珠湾攻撃があったことはドイツ側からすると同盟の効果が生きたということになる
しかし日本側からすると、日独伊三国同盟で生まれた国益って……


*23’4/15 加筆修正

前巻 『第二次世界大戦 ヒトラーの戦い』 第2巻

関連記事 『フランス、敗れたり』

『第二次世界大戦 ヒトラーの戦い』 第2巻 児島襄

びびるぐらいなら止めればいいのに…




第2巻は、赤軍大粛清から、将軍追放による軍部掌握、オーストリアの“大併合”、ミュンヘン会談、独ソ不可侵条約、そしてポーランド侵攻による第二次世界大戦の始まりまで


1.国防軍の掌握


すでに一党独裁体制を築いたヒトラーは、最後の抵抗勢力、国防軍に標的を定める
ヒトラーの支持者だった国防相・プロンベルグ大将が、再婚相手の経歴を不適当であるとして罷免、陸軍総司令官フリッチェ大将も同性愛疑惑の罠にかかって更迭された。ヒトラーの戦争計画により忠実な将軍を起用するともに、トップの首を刎ねた事実をもって国防軍への支配力を強めた
しかし、ヒトラーの戦争計画はドイツを破滅させるものと見なし、参謀総長フォン・ベック大将、参謀次長ハルダー大将(その後、参謀総長)を中心にクーデター計画も練られていて、チェコ併合後もくすぶり続けることになる


2.ファニー・ウォーの真実

ミュンヘン会談からポーランド侵攻までで見えてきたのは、誰もが世界大戦を避けたがっていたこと
ミュンヘン会談は英仏の対独宥和外交として有名で、チェコは対ドイツに軍備を集中していたため、国境地帯のズデーテン地方を取られると軍事的に無力化されてしまい、そのままスロバキアの衛星国化とチェコの併合に直結した
ミュンヘンでは英仏の妥協を見切ったヒトラーも対ポーランドでは揺れた。英仏の強硬姿勢が世界大戦を呼ぶと見て、急遽ソ連へと接近する
ソ連はポーランド東部を第一次大戦で失った勢力圏と見ていて、取り返すべくドイツと交渉に入る。ポーランドがソ連の援軍に否定的だったことも、独ソ接近につながった

それでもソ連の態度が不透明なうちは開戦に踏み切れず、8月25日には作戦開始直前にヒトラーは延期を決めている
たとえソ連との不可侵条約で二正面作戦が避けられても、イギリス相手の長期戦は避けたい。またアメリカの参戦が破滅をもたらすとも予測していたようだ
ポーランド戦が本当の世界大戦にならぬよう、対イギリスへの先制攻撃を禁じ、西部戦線では散発的にしか砲火を交えない“ファニー・ウォーが続くこととなった


3.日本外交の迷走

独ソ不可侵条約に、防共協定を結んでいた日本は大きく動揺する。複雑怪奇の迷言を残して時の平沼内閣は総辞職
ドイツからすると、防共協定はソ連への牽制ではあったが、同時にイギリスの海軍を引きつける役割を期待していて、日本の思惑とはかけ離れていた
駐独大使となった大島浩中将は、ドイツ側へ不可侵条約はソ連の極東進出を助け、防共協定を空文化するものと抗議する。が、外務次官からは「日独同盟に日本が躊躇するから不可侵条約を結ばざるえなかった」などと言われ、リベントロップ外相からは日本もソ連と協定を結べばいいじゃない。ナチスファンの中将にして大きな不信感をもたざる得なかったようだ
どうして、ここから三国同盟に発展できたか、謎と言わざる得ない(嘆


*23’4/15 加筆修正

次巻 『第二次世界大戦 ヒトラーの戦い』 第3巻
前巻 『第二次世界大戦 ヒトラーの戦い』 第1巻



『第二次世界大戦 ヒトラーの戦い』 第1巻 児島襄

第1巻が手に入らないと読めないタチでして



戦史作家・児島襄によるヒトラーとナチスドイツを題材にした大長編シリーズ

いつか読みたいと思っていた本作がようやく手に入った
小説調の読みやすい文体に、普通の歴史本には取り上げられない細かいエピソードもふんだんに持ち込まれて、期待どおりの内容だ
第1巻の内容は、ヒトラーの“入党”からミュンヘン一揆(ビアホール蜂起)、占拠による政権奪取、レーム一派の粛清、再軍備ラインラント進駐までで、ナチスの躍進と内部抗争、ワイマール共和国の政治情勢、周辺国の反応が詳細に語られる。ゲーリングがミュンヘン一揆でユダヤ人に助けられたとか、宣伝相ゲッペルスがレーム派の社会主義者だったとか、驚きの小話も散りばめられている
なんといっても、ヒトラー周囲の人間関係が生々しく取り上げられていて、エヴァ・ブラウンの度重なる自殺未遂に振り回されるヒトラーなど、妙に人間味のあるエピソードが目を引く
本書はもちろんナチスやヒトラーに同調するものではなく、なんでこんな“ただの人間たち”がジェノサイドできたか、を問うている


1.オーストリアを巡る独伊対立

ムッソリーニのイタリアは、後の「ローマ・ベルリン枢軸」からヒトラーと蜜月関係と思われがちだが、当初はそうでもない
個人的にはナチスをファシスト党のパクリと見なしていたし、オーストリアの政情を巡っては対立関係にあった
1932年にオーストリアにファシズムの弟分ともいえるキリスト教社会党のエンゲルベルト・ドルフスが独裁体制を築き、ムッソリーニはドルフスと家族同士につきあう仲だった
それが1934年7月に、ドイツとの合邦を目的とするオーストリア・ナチスの襲撃を受けてドルフスは暗殺される(ハプスブルグ朝からの風習で近衛兵に銃を持たせてなかったという!)
激怒したムッソリーニは、ドイツ国境の部隊に動員をかけるが、幸いオーストリア・ナチスによるクーデターは失敗に終わり、直接の衝突は避けられた

しかし自分の勢力圏と見なすオーストリアへのドイツの干渉に苛立つムッソリーニは、イギリス、フランスと手を組んでドイツの再軍備に反対する「ストレーザ戦線」を組んだのだ
イタリアとナチスドイツが接近するのは、イギリスが再軍備を容認したことがきっかけで、国際連盟の無力さを知ったムッソリーニはエチオピア問題を武力で解決し、ナチスの独走を利用するようになっていく


2.日独伊防共協定の実態

本巻は1937年の日独伊防共協定で幕を閉じる
日独伊三国同盟への道が開かれたものに思えるが、当時としてはそれほどテンションの高い協定ではなかったようだ
1936年に日本とドイツで結ばれた時には、日本側はソ連に対する防衛協定にしたかったが、ドイツ側はまだ軍備が整っていないとして拒否し、対象を「コミンテルン」という曖昧なものとなった。両者ともにメリットの薄い協定だったようだ

むしろ、イタリアとの防共協定で、エチオピア併合と満州国の相互承認したことのほうが大きい
また、この1936年では、イギリス海軍の優越を認めたヒトラーの低姿勢が功を奏して、イギリスはドイツの再軍備を認めるようになり、ナチスをして共産主義の浸透を抑える役割を期待していた
そして、ベルリン・オリンピックの成功により、ナチス・ドイツの国際的な評価がグッと高まる。このような状況で結ばれた日独伊防共協定は、必ずしも英仏米といった対立するものと考えられていなかった
結末から考えて解釈しがちだが、それに到るには様々な紆余曲折があったのだ


*23’4/15 加筆修正

次巻 『第二次世界大戦 ヒトラーの戦い』 第2巻



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