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【プライム配信】『地雷を踏んだらサヨウナラ』

実姉の結婚式の前日で立ち去り、ロックルーの結婚式には無理やり間に合わせる自由人




1972年のカンボジア。若手カメラマンの一ノ瀬泰造(=浅野忠信)は、アメリカが支援するロン・ノル政権と、ポル・ポト派との内戦を取材していた。危険な戦場でシャッターを切りまくる彼だが、居候している村では子供たちに大人気で、教師のロックルー(=ソン・ダラカチャン)とは大の親友だ
しかし、アンコール・ワットにこだわる泰造は、政府軍に国外退去を命じられ、ベトナムでは従軍取材中に、カメラマン仲間のティム・ヒル(=ロバート・スレイター)を失う。ティムの行きつけの店で、その恋人レ・ファン(=ボ・ソンフン)と知り合うが……

日本映画のイメージを覆す内容だった
同名の写真・書簡集を原作とする、戦場に散ったカメラマンを主役として映画なのだが、日本語が日本での場面しかない
そして、カンボジアやベトナムでは現地の言葉が貫かれ、英語も通信社かカメラマンの友人と話す時ぐらいだ。当たり前と言っては当たり前なのだが、興行の都合で言語は曲げられやすいものであり、ノンフィクションへのこだわりが感じられる
監督の五十嵐匠は、ベトナムで死んだカメラマン、沢田教一のドキュメント映画を撮っていて、その経験が生かされているようだ
まるで取材映像を観ているかのような、地味で堅実な演出の一方、戦場では人間の視点を反映して酔うほどに揺れるカメラワークありと、メリハリが効いている
『富野由悠季全仕事』奥山和由プロデューサーが宣言したとおり、国際的に普遍性を持ち得た作品となっている

作中の一ノ瀬泰造は、自分のやりたいことを貫いていく自由人であり、それがゆえの危険と寂しさも描かれる
大事な友人がいても、好きな女性が見つかっても、ひとつのところに留まれない。戦場カメラマンは、腕前もさることながら、運とそれを拾う度胸で食べていく職業であり、知り合いの子供が死にかかっているときにも、シャッターを切らねばならない
それに対して作品では価値判断を下さない戦争を伝えるためにカメラを手にし、戦争があるがゆえに名声と報酬を得られる。その矛盾は避けがたいことなのだ
泰造がアンコール・ワットにこだわり出したのは、通信社が示した1万ドルの報酬だが、それに違う意味を持たせたのは仲良くしていたチャンナの願い。「アンコール・ワットへ行って、両親を連れ戻して欲しい」と頼まれたから。幼い彼はまだ両親の死の意味が分からないのだ
アンコール・ワットかつての王宮であり、上部座仏教の聖地で、カンボジアのナショナリズムと結びついていた。チャンナには願いを叶えてくれる存在に思えたのだろう
それを引き継いだ泰造はただ、ただ、アンコール・ワットを撮りたい。しかし、その願いは……


原作 『地雷を踏んだらサヨウナラ』

同監督の作品 【DVD】『長州ファイブ』

関連記事 『ポル・ポト<革命>史』



『ベスト&ブライテスト』 下巻 デイヴィッド・ハルバースタム

前巻を読んだのが、4年以上前とか




ベトナムの泥沼化を招いた指導者層の決断を描くレポートの最終巻
タイトルからして反戦運動に話が移ると思いきや、続いてジョンソン政権の文官、軍人の動きを追うものだった。"賢者”たちの判断がテーマなのだ
ジョンソン政権はダラスの暗殺後に成立したこともあって、ケネディ政権の主要な閣僚、国防長官ロバート・マクナマラ、国務長官ディーン・ラスク、国務次官ジョージ・ポール、大統領補佐官ジョージ・バンディが留任し、引き続いてベトナム問題の解決に取り組んだ
下巻では、ケネディ時代から始まった軍事顧問団の派遣が、北ベトナムへの大規模な空爆と戦闘部隊の派兵へ拡大した責任を明らかにしていく


1.「偉大な社会」とベトナム介入の葛藤

リンドン・ジョンソン大統領は、フランクリン・ルーズベルトら過去の大政治家たちを意識しており、公民権の拡大と貧困の撲滅を目指した「偉大な社会」をスローガンに掲げていた
ケネディから引き継いだ"賢者”たち、東部のエスタブリッシュメントたちとは違い、テキサスの田舎者というコンプレックス(実際には政治家の息子だが)を持っていて、閣僚と折り合いが良かったわけでもない
彼にとっての第一目標は、政治家としての事績を残すための「偉大な社会」の実現であり、ベトナム戦争は予算的にも脚を引っ張る存在といえた
しかし党内の保守派として、反共の姿勢を崩すわけにもいかず、あくまで戦争の予算規模を限定して、"サラミ”を薄く切るように介入の規模を徐々に拡大していくことにする
こうすることで、予算と議会のリソースを戦争にとられることなく、「偉大な社会」のための法案を通すことができた
が、これには膨大な軍事支出を議会へ隠すことを伴い、経済のインフレ要因となって国民生活に影響を及ぼすこととなった


2.賢者たちに欠けたモラル

北ベトナムへの空爆、いわゆる北爆の決断は、大規模な派兵をせずに相手に音を上げさせる、費用対効果から導き出された。そもそも空軍無敵論=ニュールックは、核兵器と空軍重視で軍縮を狙った政策から生まれている
しかし、北爆はさらなる北ベトナム軍の南下を呼び、さらなる戦闘部隊の投入を必要とした。ベトナム社会の高い出生率は年間10万人の兵士を新たに動員できて、結局は数十万規模の派兵で対抗せざる得なかった
その大軍の派兵でも現地のウェストモーランド将軍は5年以上の長期戦を予想していたが、ワシントンの政権は数年、次の大統領選挙までにメドをつけるつもりで決断していて、それぞれの観測に重大な齟齬が生じていた
どうして、こうなったのか?
著者は自身ですら1963年までそうだったと告白したうえで、アメリカが建国以来不敗であり、自らの力で不可能なことはないとする圧倒的な自信と傲慢さから来たとする
また“賢者”たちは頭は良くても、道義やモラルに乏しく、政権内に残るために保身を優先して必要な施策を曲げてしまう
人間として政治家として、何をしてはいけないか、それが欠けているから、皮算用で人の上に爆弾を落とせるのだ
当代、最高の頭脳と評された人々でも斯くの如し
今の日本でも、薄い“インテリ”は毎度メディアをにぎわせていて、下手すりゃ国政に影響を与えたりするので、騙されないように気をつけたいもんである


*23’4/5 加筆修正


前巻 『ベスト&ブライテスト』 中巻

『地雷を踏んだらサヨウナラ』 一ノ瀬泰造

コメント欄に宗教の勧誘はお断り。せめて内容に触れて




70年代に活躍した戦場カメラマン、一ノ瀬泰造の写真&書簡集
今から20年前、『富野由悠季全仕事』において、敏腕プロデューサー・奥山和由富野監督の対談で挙げていたもので、実際に映画化され話題となった
一ノ瀬泰造がカンボジア入りしたのは、1972年3月UPI通信社(アメリカ)に入ったものの、試用期間を経て不採用となったので、フリーのカメラマンとして潜入した
読んで驚くのは、カメラマンとしての駆け上がりぶりである。当初は経験も技術も拙くマスコミにも相手にされないが、たった1年の間に日本のマスコミはおろか、UPI通信社とよりを戻してワシントンポストにまで写真が載るようになる
瞬く間にてっぺんへ、これが戦場カメラマンの魅力でもあるのだろう
本人の文章には自身の死について、当然ながら触れられていないので、若者の成長記録、サクセスストーリーにも読めてしまう。読まれることを前提の文章が多いので飾っている部分も多いかもしれないが、性格はかなりポジティヴで逆境に燃え、ストレートに物を言うが女にはかなりだらしない(苦笑)
NHKの取材ビデオで、明るく戦争を語り過ぎて、使ってもらえなかったこともある
しかし、職場が文字通りの戦場である。一瞬でさっきまで飯を食っていた兵士が殺される世界で、泰造もなんども危ない目に遭う
タイトルは伝説のカメラマン、ロバート・キャパの最期から引いたもので、この割り切りなくしては、やれたものではなかったのだろう

1972年のカンボジアは、CIAの工作によるクーデターで誕生したロン・ノル政権ポル・ポト派を中心にした‟解放勢力”と激しく争っている時期
泰造はアンコールワットを撮ろうと最寄の街シェリムアップへやってくるが、そこはすでに‟解放勢力”の手に渡っていて、政府軍との最前線となっていた
シェリムアップそのものに軍事的な価値はないが、国の象徴であるアンコールワットを占領することが、政治的な意味をもっていたのだろう
アンコールワットは15世紀にタイのアユタヤ朝との戦争で放棄された都であり、シェリムアップの名にはそのアユタヤ朝に勝利したことから「シャム人敗戦の地」という意味がある
何度も政府軍の奪還作戦は失敗し、1973年には形勢が‟解放勢力”側に傾いて、国道という国道が寸断されるようになっていた
当時の記者たちの間で交わされるのが、いかに‟解放勢力”の支配する「解放区」を取材するか。この前読んだ『ポル・ポト<革命>史』で著者は取材に成功したものの、外国、インテリを激しく嫌うポル・ポト派の性質上、スパイとして処断される危険も高かった
一ノ瀬泰造をはじめとする多くのジャーナリストが拘束され、再び外へ出ることなく命を落としたのだ


*カンボジアで一番の親友、教師‟ロックルー”ことチェット・センクロイは、手記で結婚式を挙げ泰造も出席したが、ポル・ポト派の粛清により1975年に死亡。ただ妻は生き残り、シェリムアップでクメール語を教える教師になったそうだ

*23’5/10 映画ではロックルー(チェット・センクロイ)の処刑が1977年とされていた

映画 【プライム配信】『地雷を踏んだらサヨウナラ』

関連記事 『ポル・ポト<革命>史』



『ベスト&ブライテスト』 中巻 デイヴィッド・ハルバースタム

介入以前にもう完全に失敗していた件


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なぜ、ケネディが集めた俊英たちが、アメリカを泥沼のベトナム戦争に送りこんでしまったかを追う、伝説的レポートの中巻
ケネディ政権のもとで軍事顧問団の派遣が決まり、南ベトナムの首都サイゴンに援助軍司令部が作られる。この援助軍司令部は本国にきわめて楽観的な報告を送り、アメリカ政府に情勢判断を誤らせる
しかしケネディの暗殺直前には、仏教徒のデモに弾圧で返したゴー・ジン・ジェム政権が問題視され、CIAの秘密作戦で使嗾された南ベトナム軍部のクーデターを黙認する決断をした
ダラスの暗殺事件後には、副大統領のリンドン・ジョンソンが大統領職につき、ベトナム政策を継続。次期大統領選に向けて、ベトナム問題がマイナスにならないように、トンキン湾事件から北爆を実行するのだった


1.統計の鬼、ロバート・マクナマラ

タイトルにあるスマートな‟賢者”の代表格、ロバート・マクナマラが前半ではクローズアップされる
彼は第二次大戦中にアメリカ陸軍航空隊に入り、戦略爆撃の解析、立案に従事。太平洋の対日戦では、B-29の大量投入を統計学の視点から立証した
戦後は、GMに押されていた自動車メーカー、フォードの経営陣に迎えられ、赤字と不採算に悩むメジャー企業を徹底的なリストラと工場閉鎖でV字回復させた
しかし、マクナマラは民間企業に要求される人間臭さ、非合理性を嫌って、多大な役員報酬を捨ててケネディ政権に国防長官として入閣する。この統計と‟合理性”への偏愛がマクナマラと‟ベスト&ブライテスト”の特徴
マクナマラは国防長官としては異例なほど、ベトナムに足を運んだが、援助司令部の粉飾した報告を見抜けず、そのもっともらしく作られた数字から、ベトナムへの介入政策が正解であると信じてしまった
上巻でエスタブリッシュメントの長老が、‟賢者”たちを「彼らが少しでも選挙の洗礼を受けておれば、より安心なのに」と評していたことが偲ばれる


2.戦時下の文民統制の限界

ベトナム戦争の引き金はケネディ政権の時代に引かれていたが、新大統領リンドン・ジョンソンはそれに拍車をかけた
実際、より強い介入を働きかけたわけではなかったが、次の大統領選で勝利するためには、ベトナム問題に腰を引くわけにはいかなかった
国共内戦を中共政府が制したことで、ときの大統領トルーマンは第二次大戦に勝利したにも関わらず、再戦を阻止されてしまい、国務長官アディソンは敗北者の汚名を負った。政治家としてそんな烙印を押されてしまうのは、避けたかったのだ
CIAの秘密作戦が誘発したトンキン湾事件から、その海上戦力へ報復する空爆を承認し、かつて院内総務を務めた上院議会からは戦争の白紙委任状ともいうべき法案を通させた
本来は人気にとぼしい新大統領は、トンキン湾事件直後には85%もの支持を集めたという。このとき、「宣戦布告なしに戦争の権利を委託してしまった」「アメリカの憲政を破壊する」と警告して反対した議員は二人に過ぎない
一度、戦時に入ってしまうと、軍部は独立した勢力として活動を始めて、あらゆる情報を自分の有利な側に管理してしまい、大統領も議会もその脚を引っ張るように見られることを恐れてしまう。文民統制は戦争が始まる前までしか機能しない、というのが本巻の教訓であり、政治家は安易に軍へ動かしてはならないのだ


*23’4/12 加筆修正

次巻 『ベスト&ブライテスト』 下巻
前巻 『ベスト&ブライテスト』 上巻

『ベスト&ブライテスト』 上巻 デイヴィッド・ハルバースタム

ボトムズのクメン編につながってしまった


ベスト&ブライテスト〈上〉栄光と興奮に憑かれて (Nigensha Simultaneous World Issues)
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ケネディが集めジョンソンが引き継いだ「最良にして最も聡明な」エリートたちが、なぜアメリカを泥沼のベトナム戦争に引きずりこんでしまったのか。アメリカ政治の本質を射抜く伝説のレポート
本書はベトナム戦争とそれにアメリカが深入りする過程を、ケネディ政権からジョンソン政権まで追いかけた、ディヴィッド・ハルバースタムの代表作である。ベトナム戦争に「泥沼という言葉が続くようになったのは、彼のレポートに始まるという。上巻ではケネディ政権がその政権幹部の陣容を整え、ベトナムへ軍事顧問団の派遣を決定するところまでが描かれる
ジョン・F・ケネディはキューバ危機の冷静な対処とその劇的な死から、戦争に本格介入したジョンソンに比べてリベラルな印象が強い。しかし本書でのケネディは、単なる理想主義者ではない
むしろ、左右の支持層を無難に集めようとする秀才肌の政治家であり、大統領に当選後はリベラル層の支持を確保できたので、CIA長官をダレスからジョン・マコーンに変えるなど保守派の取り込みに気を遣った。ケネディの虚飾を剥がす上巻なのである


1.自由と民主主義への信仰

子供の頃から神童のような実績を持つマクジョージ・バンディ(国家安全保障担当大統領補佐官)に代表されるような人材が、なぜベトナムに首を突っ込んでしまったのか。上巻である種の答えが示されている
それはアメリカこそが、途上国に対する近代、自由と民主主義をもたらせ、現地のベトナム人もそれを望んでいるという‟信仰”である。フランスは植民地の支配者として舞い戻ろうとして失敗したのであり、植民地から独立した歴史を持つアメリカはそうした批判を受けないと、勝手に思い込んでいたのである
中国の共産化がアメリカに衝撃を与え、50年代に赤狩りが巻き起こったように、ベトナムの共産化が東南アジア全体の赤化を招くというドミノ理論が浸透して、世界を二色に分ける先入観が首脳陣や世間に流布してそれに反対することは困難だった
実際にはアメリカが近代化しようと援助した南ベトナムのゴ・ジン・ジェムは、一族で政府や軍隊を私物化しかえって、旧態依然とした家族主義を保全してしまい、かえって外国の援助がナショナリズムを刺激して解放戦線を勢いづかせる「奈落へと向かう渦巻」に陥ってしまった


2.ケネディの軍事顧問団派遣


ケネディは単純な反共主義者にはほど遠く、国際政治の多様性を理解していたが、ベトナムへの軍事顧問団の派遣を決定してしまう
それは彼が理想主義者というより、優れたバランサーである所以で、ベトナムへの介入する声が内外で高まるなか、その口を封じるためにお飾りではない規模の派兵を決めてしまった。ケネディが軍部と喧嘩して暗殺されたという筋書きは、本書によれば通用しないし、ピッグス湾の失敗もあっていろいろ妥協もしていたのだ
著者はベトナムについてケネディ生存当時から舌鋒鋭く批判しており、大統領から部署を移動するようニューヨークタイムズへ圧力が掛けられたという
朝鮮戦争を戦ったリッジウェイ将軍は、少数の軍事顧問団の派遣だけでも、一度派遣してしまえば引くことは困難だと反対した。数千人の派遣数年後には数十万人に膨れ上がり、簡単にはやめられなくなることを洞察していた
しかし、軍部には第二次大戦の成功(してないんだけど)から戦略爆撃で敵陸軍を制圧するニュールック=空軍無敵論者が多く、フランスの失敗を深く考える者は少数だった。ベトナム戦争への導火線は、ケネディとその幹部たちによって引かれたのだ


*23’4/12 加筆修正

関連記事 『ザ・コールデスト・ウィンター 朝鮮戦争』 上巻

【BD】『ランボー 怒りの脱出』(1985)

二作目までは良かったような




服役中のランボー(=シルヴェスター・スタローン)は、トラウトマン大佐(=リチャード・クレンナ)の訪問を受ける。特赦と引き換えに、ヴェトナムで捕虜となった兵士たちを救出して欲しいというのだ。しかし、タイの作戦本部で出迎えたマードック司令官(=チャールズ・ネイピア)は、収容所の写真と撮るだけを命じ、救出に積極的ではない。憤ったランボーは現地の工作員コー・パオ(=ジュリア・ニクソン)と合流し、収容所に潜入したが…

今回は北ベトナムとソ連を相手どっての戦いなので、警官相手の前回からドンパチも派手になった。いわゆるランボーの好き放題暴れまわるイメージは、この二作目からのものだろう
兵士がいて上司がいて任務が命じられて、とストーリーがシンプルなので、展開が二転三転しても短い尺のなかで自然と収まっている
アクションは80年代のノリでドカンドカン行ってくれる。捕虜と逃げるランボーに北ベトナムの兵士が迫撃砲を使ったり(照準が大変だろう)、ヘリからナパーム弾(!)が落とされたり、ランボーはランボーで矢の先につけた炸裂弾で次々とありえない爆発を起こしていく
特典映像の回顧によると、『怒りの脱出』のアクションは各方面で模倣されたそうだ。管理人も最近『Farcry3』なるゲームの実況を観ていたので、元ネタをいくつも確認することができた


1.国家の父性を拒否するランボー

捕虜になったランボーと政治的事情で救出を拒否するマードックの対立は分かりやすいが、ランボーとその敬愛する上司のトラウトマンにも小さからぬ溝がある
トラウトマンは頑なに組織の論理で動く人間であって、ランボーは可愛い部下であると同時にでもある。ベトナム戦争で捕虜となり、その傷から前作のような騒ぎを起こしたランボーに、要らぬ犠牲が出るからと頼めてしまう冷厳さがある
ランボーの素質を問うマードックに「あいつにとって、地獄は故郷です」という台詞はえげつない
トラウトマンのような立ち位置のキャラクターはアメリカのポリティカルフィクションに良く出てきて、愛すべき厳父として「国家の父性」を象徴する存在として、最終的にはその意図が肯定されることが多い
しかし、本作では主人公とその親父は距離を置き、ランボーは国家から与えられたシナリオではなく自らの判断で動くベトナム戦争で国家への信頼が喪失したともいえるし、駒から自分を回復した人間の姿ともとれる


2.ベトナム戦争を「今度は勝つ」!?

BDに特典映像としてついていた、「今度は勝つ」が面白い
製作者や出演者の回顧となっていて、斜め上をいく舞台裏が明かされていく
脚本を『ターミネーター』を製作中のジェームズ・キャメロンに依頼したところ、初期案のスタートが精神病院からだったそうだ。思わず、『ターミネーター2』のサラ・コナーを思い出すじゃないか(苦笑)
撮影の舞台は最初はタイを予定していたが、景色はバッチリでも撮影が困難だとして、なんとメキシコのアカプルコに変更。ビーチの奥に大ジャングルが広がっていて、わざわざ水田を作って米作りまでしてしまったらしい
一番興味深かったのは、製作会社がベトナム戦争の痛みを癒す目的で作ったと公言していることだ
ベトナム戦争の経験者を癒すために、汚い男たちがいなければ戦争に勝っていたと匂わす目的でマードックというキャラクターが生み出された
映画においてベトナム戦争を勝利する幻想を演出することは、レーガンの新冷戦が背景にあって、おそらく次作の『怒りのアフガン』への流れにつながるのだろう
コーがランボーに告白したあと、あっという間にフラグが回収されるように、無駄が無さすぎて間のとれていない映画でもあるものの、特典映像込みで魅せる作品である


前作 【BD】『ランボー』


ベトナム戦争の捕虜についてはこの本に詳しいそうだ

【BD】『ランボー』(1982)

新しい仕事に慣れるまで、ブログの更新ペースは落ちそうだ




ベトナム帰還兵のジョン・ランボー(=シルヴェスター・スタローン)が訪ねた戦友は、ベトナム戦争の後遺症で死んでいた。途方に暮れる中、町の保安官ティールズ(=ブライアン・デネヒー)に絡まれ警察署に連れ込まれる。警官たちの横暴にベトナムの体験がフラッシュバックしたランボーは、ひと暴れして山中へ逃げ込む。街の警官では手に負えず、州警察のレンジャー部隊、州軍までも動員され、彼の上司だったトラウトマン大佐(=リチャード・クレンナ)が姿を現して…

尺が97分なので、まったく無駄がないストイックな構成になっている
警察署で暴れたあとはほぼノンストップで、ドーベルマンやヘリまで使って追いかける警官から、逃げながら反撃の準備を整え、鮮やかに料理していく
大佐の説得、廃坑からの脱出で一時スローダウンして、軍のジープを奪うところから街への破壊活動、保安官との対決とラストまで一気に突っ走っていく
ベトナム帰りという要素は最初と最後にしか強調されていないのに、取ってつけた感がないのは、ジェリー・ゴールドスミスの音楽に、事態を見守るトラフトマン大佐の存在、そしてランボーのストレートな行動によって、視聴者に種が植えられているからだろう
スタッフロールの途中、ランボーがそっぽ向いたところで絵が止まるのは、救われたようで救われていないことを表している


1.保安官制度と銃社会

日本人から観て違和感を感じるところがいろいろあって、その部分がアメリカなんだろうと思う
ランボーを追う保安官ティールズは、自分の街は自分で守るという意識が強く、州警察や州軍に対しても公然と牙を剥く。日本で各地域の署が県警に、県警が警視庁、警察庁に楯突く構図なんて考えられるだろうか
自分に託された任務は、自分の住んでいる地域に由来しているというわけだ
ランボーはバイクをパチるぐらいで、ほとんど人を殺さないが、ギョッとするのは街を次々と爆破していく場面である
自分を拒否した街への報復であるにしても、爆破炎上させるのだ!
建造物が密集する日本において、放火は殺人に匹敵する重罪であり、アメリカと罪刑概念の違いを感じてしまう。モノなら取り返しが効くというのが、向こうの感覚なのだろうか
銃専門店がほいほい転がっているところも、銃が日常の延長にある社会というわけで、向こうの人は違った感覚で観るのだろうと思う次第である


2.ほとんど死なないスタローンの改変

BDには特典映像が豊富についていて、意外な内幕を知ることができた
日本では通称ランボーも、アメリカでの原題は原作に準じた『First Blood』(邦題:一人だけの軍隊)であり、原作の小説では追跡者を18人殺し最後は自らも死んでしまう筋書きだった
それを変えたのは主演のスタローンであり、脚本が気に入っていないと感じていた監督が本人に書かせることで、役に前向きに入らせる意図だったそうだ。この変更で追跡者は事故死の一人を除いて死なないことになった
もう一人、脚本でもめることになったのは、トラウトマン大佐役が予定されていたカーク・ダグラスで、彼はランボーが最後死ぬことにこだわったスタローンはランボーが死ぬことは、現実のベトナム帰還兵に負のメッセージを与えると反対し、他にも細かい食い違いから降りることになった
後年、スタローンはカーク・ダグラスから「芸術的にはオレが正しいが、もしあの通りにしたら君は数十億ドルの借金を背負ったろう」とお褒めの言葉を頂いたそうだ
自らのイメージを守るためでもあったにせよ、スタローンのバランス感覚、才覚はたいしたもんですよ


*23’5/10 加筆修正

次作 【BD】『ランボー 怒りの脱出』



『人間の集団について ベトナムから考える』 司馬遼太郎

司馬遼太郎の小説は「司馬遼太郎」でまとめたが、エッセイはどうしていこう?

*紀行→ノンフィクション→小説と考えて、小説-「司馬遼太郎」に入れました

人間の集団について―ベトナムから考える (中公文庫)人間の集団について―ベトナムから考える (中公文庫)
(1996/09/18)
司馬 遼太郎

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米軍から撤退した1973年4月のベトナムから、“人間の集団”としての国家、南アジアと日本の関係などを考える
「われわれは人間の集団を生物の次元で考えねばならない時代にきている」とし、“生の人間”から国家や社会を洗い直していく論考であり、様々な現地の人々の触れあいを伝える紀行エッセイでもある
冷戦が続き学生運動も盛んだった70年代にまったく政治イデオロギーに囚われず、ベトナムにはチャンパー(林邑)の昔から千年超える歴史で捉える
非合理的にみえる慣習や奇妙な新興宗教など前近代的な要素にも寛容で、むしろ懐かしさをも表明する。近代礼賛に見える作品とは別の司馬がいて、小説の指向性から離れた自由さが司馬エッセイの醍醐味なのだ
近代以降のベトナムは日本以上に“近代”に揺さぶられた地域であり、その毒をこうも目の当たりにしては「坂の上の雲」のようにはいかない。ついに小説化できなかった近代の課題が、本作では真っ向から語られている

司馬はベトナム戦争の性格に困惑している
本来、戦争は補給が決定づける。第二次大戦の日本は補給が潰えたときに壊滅した

しかし、ベトナム戦争にはその原則がない。その原則が戦争という人間社会の異常運動のキメ手の生理であるのに、その生理を持っていない以上、ベトナム戦争は戦争(内乱をふくむ)という定義からまったくはずれた別のものなのである。ハノイにもサイゴンにも密林の中の解放戦線にせよ、自前で兵器をつくる工場をもっていないのである。かれらが自分で作った兵器で戦っているかぎりはかならずその戦争に終末期がくる。しかしながらベトナム人のばかばかしさは、それをもつことなく敵味方とも他国から、それも無料で際限なく送られてくる兵器で戦っていることなのである。この驚嘆すべき機械運動的状態を代理戦争などという簡単な表現ですませるべきものではない。敗けることさえできないという機械的運動をやってしまっているこの人間の環境をどう理解すべきだろう(p13)

これは今の紛争地も同じで、外部から武器が流れてくるから紛争が止まらない。核によって「総力戦」にまで拡大した戦争が止まった反面、その力が紛争地で解き放たれたかのようだ。「機械的運動」という言葉は、アーレントの「全体的支配」を思い出させる
司馬は支援する大国だけでなく、ベトナム人をも無定見と非難する。しかし、なぜここまで殺し合いが続いてしまうのか
まず提示されるのが、冒頭の兵器の思想
遅れて近代に出会った民族にとって、なんの形で近代を見るかというと火器であり、白人であろうとアジア人であろうと銃弾が当たれば死ぬという事実をもって、その普遍性に感動する。その感動が軍事先行の近代化を生み出す
もう一つはサイゴン政府のイデオロギーが「反共」のみであること
その存在理由からして共産主義と戦うことを義務づけられていて、膨大な武器が集積されいつのまにか数字の上では世界第4位の軍事大国にしてしまった
これではアメリカの高官がいかに働きかけても、武器がなくなるまで戦争は終わらない
本作では触れられないが、ベトナム戦争はアメリカの援助が少なくなった1975年にようやく幕を閉じる

司馬は取材に訪れた南ベトナムのサイゴン政府より、北の共産主義の方がマシとする。彼を保守の論陣とする人からは、ひっくり返るような結論だったろう
なぜかというと、サイゴン政府にはアメリカが反共のために膨大な経済支援を行なっており、南ベトナムの経済は資本主義の基盤のない土地にむりやり高度消費社会を立ち上げたようなもので、アメリカが手を引けば崩れる砂上の楼閣だからだ
そもそも存在自体が非常に不自然で異常なのだ
ならば、北ベトナムが地主を大量殺戮した異常性を認めた上でマシと判断する
司馬からすると、共産主義は後進国が他国の介入を排除して近代化に対応する手段であり、とうてい最良とはいえないがひとつのやり方とする。あるいは、フランコ型のファシズム(全体主義ではなく権威主義的独裁)か
こういう点では非常に現実主義であり、むしろ日本の学生運動などの政治的正義にこだわる志向を警戒し、アメリカが南ベトナムで行なった「手前勝手な正義」と並べる発想は鋭い続きを読む

『実録・アメリカ超能力部隊』 ジョン・ロンスン

超能力を使って社会の敵を倒すなんてヒーロー物は世間で溢れているが、現実の軍隊にもそれは存在していた!

実録・アメリカ超能力部隊 (文春文庫)実録・アメリカ超能力部隊 (文春文庫)
(2007/05)
ジョン ロンスン

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ことはベトナム戦争の敗戦から始まる。徴兵制の廃止を余儀なくされ、威信が地に墜ちて落胆する軍人たちに、ニューエイジ運動の影響を受けたある将校が突飛な構想を聞かせる。それも「敵を傷つけることのない平和の軍隊」。「ラブ&ピース」の精神をもった軍隊なのだ!
平時であれば受け付けられないトンデモ話だが、敗戦の悪夢を引きずる上層部には魅力的に映った。いわば現実逃避的に計画は始まったのだが・・・
この本はそうした「平和の軍隊」の戦士たちの軌跡を追ったもの。実際に超能力の訓練を受けた男たちの話は荒唐無稽であり、そのキャラクターも香ばしくイカれた人ばかり
一例を挙げると

グレン・ホイートンは椅子の上で身を乗り出した。「きみはこの家の玄関から入って、裏にまでやってきたね。さて、この家には椅子がいくつある?」
沈黙がおとずれた。
「たぶんきみはわたしの家に椅子がいくつあるか答えられないだろう」とグレン。
わたしはあたりを見まわしはじめた。
スーパー兵士に見る必要はない」と彼はいった。「なにもしなくてもわかるんだ」
スーパー兵士ですって?」とわたしはたずねた。
スーパー兵士さ」とグレンはいった。「<ジェダイの戦士>だ。彼にはあらゆる照明の位置がわかる。あらゆるコンセントの位置がわかる。多くの人間は観察力がとぼしいんだ。自分のまわりで実際に起きていることをちっともわかっていない」
<ジェダイの戦士>とはどういう連中です?」
「きみの前に一人いるよ」とグレンは答えた。(p23~24)


ちょっ、待てぇぇぇ(笑)
と、こんなトホホな人たちばかりなのだが、本人たちはいたって大真面目
ユリ・ゲラーが工作活動に関わっているとか、壁を通り抜けられると思っている将軍とか、山羊を睨み殺したとか、もう、トンでもないネタのオンパレードなのだ
が、途中までと学会的な視点の本だと思っていたら、中盤以降に話は風雲急を告げる
この超能力部隊が試行錯誤されて生み出された技術が、実はテロリストやイラク戦争の捕虜たちの尋問に使われていたというのだ
歌で平和にするというマクロスな構想が、捕虜虐待に使われるという現実もさることながら、このことを取り上げたメディアがただのネタ話としか流さないことには愕然とした
最後、過去にCIAが起こした事件にも話は移る。この本はアメリカの、それこそ<暗黒面>を取り上げたものだったのだ・・・

著者は気鋭の調査ジャーナリストながら、トンデモネタに関しても冷静にそしてユーモアたっぷりに書く。その距離感が絶妙で、これはよく出来た小説なのではないかと思えるほど。話の奥がなかなか見えないので、前に読んだミステリーと同じくらいの緊迫感があった
ここまでシリアスとユーモアのある読み物ってフィクションでもそうはない
全てにちゃんとした物証のある話ではなく、真贋を読者に委ねられている部分が大きいが、なかなか衝撃的なルポだ続きを読む

ハリウッド映画と機関銃~『機関銃の社会史』

昨日(今朝?)取り上げた『機関銃の社会史』には、その後の映画と機関銃の関係について面白い論考がある
一世を風靡したギャング映画は、映画を模倣するマフィアが現われ製作者側が萎縮。1935年以降はギャングの敵であるFBIや秘密情報員が新しいヒーローとなり、機関銃は悪役の小道具に成り下がってしまう

しかし、本書刊行当時、70年代には「ニューシネマ」の潮流に乗って新しい存在感を発揮しだしたという
その魁けである『俺たちに明日はない』(1967)には、機関銃はギャングのものとしてではなく、むしろ権力側の象徴として登場する。それに追いつめられる二人のアウトローには昔のギャングの面影はない
『イフ』(1968)『ワイルド・パンチ』(1969)ではアウトロー側が機関銃を扱うが、基本的に報われない現実逃避の道具として姿をあらわす

第一次世界大戦において機関銃が、新しい殺人技術の前では個人など何の価値もないという考えの誕生を実際に促したことを見た。・・・(中略)・・・そして今度は逆に、機関銃は人格化され、日増しに自分の無力を思い知られる世界で、何とか成功しようと絶望的な試みをする者の手段になっていった。少なくとも空想の世界では、技術は自らに反逆したのだ。(p280)


作者の言い分はいささか大げさにも思えるが、本書が刊行されたのはベトナム戦争末期。多くの徴兵された若者が毎日戦場で命を落としていた
「ニュー・シネマ」の虚無感もそうした時代背景の中で生まれたことを見逃すべきではない
作者がそうした映画のなかに機械で表現するように見えて、実は機械に振り回されている人間を見るのは時代を超える優れた洞察だと思う

そういえば、同級生を殺した女子生徒が『バトルロワイヤル』のパロディを書いていたという話があったっけ・・・

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